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あなたの「目」に、あなたの「心」になれるなら……


本文は、年2回発行する本会の機関誌『支える会通信第15号』(2010年1月10日発行)に巻頭言として載せたものです。


 日常生活にも慣れ親しみ、死者の思い出も間遠になった頃、ふとした折に、「ああ、この思いをあの人に伝えられたら」と切なく願うことがありますが、そんなときには、伴侶が久しぶりに夢の中に戻ってきてくれたときのような嬉しささえ覚えます。学生の頃、ある本で、「人は二度死ぬ」という言葉に接したことがありますが、当時は実感を伴わなかったこの言葉が、この頃では、ひどく現実味を帯びるようになりました。一度目の死とは、?言うまでもなく文字通りの死者となるとき、二度目の死は、残された者の記憶から死者が消え去るときのことでした。
 死者とつながりたい、会いたい、と強烈に念願する時期は、やはり、死別後も間もない頃を置いてほかにはありません。言いそびれ、伝えそびれた感謝や謝罪の言葉を思い出し、病を得てからの伴侶のさまざまな表情を思い起こす度ごとに、もはや言葉をかけることも、手に触れることもできぬ現実に、居たたまれないほどのやるせなさを覚えます。「ああ、死者とつながることができたら」、「死者の魂と交流する方法さえ見つけられたら。」こうした気持は、誰にでも起こる自然な人間の感情ですが、にもかかわらず、心のどこかで、それが叶わぬ願望に過ぎないこともわかっています。願望が強烈であればあるほど、反動としての絶望や空しさも強くなり、すべてが空々しく疎ましいものに思えてきます。
 渇望とそれ故の空しさの間を揺れ動くことでは、当時の私も同じでしたが、そんなある日、ある言葉を耳にして、新鮮な驚きを覚えました。思えばごく普通の表現であったのかもしれませんが、それなりの実質を持った使い手以外には、なかなか使いこなせない言葉であったかもしれません。
 妻を亡くして9年目、長男が結婚することになったときのことです。親としても初めての経験であり、当然印象深いものでしたが、将来の安心を見定めることもなく先立っていた妻にとっては、ことのほか重大な出来事に違いないと思われました。妻に伝えることができたら、と私は強く願いました。できることなら妻にも同席して欲しい。しかし、現実にそれが可能になるはずもなく、空しさばかりが先立ちました。
 そんなとき、人は誰でも同じことを考えるのではないでしょうか。いま妻に一番近づける方法があるとすれば、それは、妻が最後の最後までお近付きいただいていた方々に出席していただくことではないのか、私はそう考えました。最後の最後までお世話いただいた方々といえば、晩年の妻が積極的に参加していた教会の婦人会の方々です。私は思い切って、妻が時折「お姉さん」と呼んでいた二人の方にお願いしてみることにしました。お二人とも快く承諾してくださいましたが、私の耳を新鮮な驚きで満たしてくださったのは、そのお一人からの言葉でした。「ええ、喜んで。私が妙子さんの目になって、しっかり見詰めてあげますから。」
 「妙子の目」になって見詰めてくださる? 私は新鮮な驚きを感じました。妙子の目で見詰めてくださるということは、たとえ一瞬にしろ、その方が「妙子自身」になることであり、もっと正確に言えば、妙子自身の「魂」となり、その魂の「目」となって、見てくださるということだろう。 私は即座にこう考えました。「これはきっと、私の気持ちを気遣ってのことに違いない」と。しかし、その一方で、他者を気遣う一念さえあれば、ひょっとすると、死者の魂にもつながらないともかぎらない。それに、この方には長いクリスチャン歴があり、その上、不条理な事故によって最愛の一人息子さんを亡くされてもいらっしゃる。その悲しみを通して、ご子息の魂とつながる実感をすでに体験されておられないともかぎらないではないか。私はふっと気持が楽になるのを覚えました。
 つい最近、亡くなった友人の奥様とご一緒に、友人のお墓参りに同行させていただく機会がありました。お墓を清め、花を生け、それから、お墓の片隅に小さく体を折るようにして屈みこみ、慎ましく、ひっそりとお祈りを始める後ろ姿を見詰めながら、私は、自分が友人の目となり、心となって、奥様の幸せを心から願っている自分に気付きました。死者の魂と一つになるのも、そんなに難しいことではないのかもしれないと、そのとき、ふと思いました。なんとなく「そう思えたら」、大切なことは、理性に固執することではない。理性をも一時忘れる心の広がりを持つことであり、なんとなく「そう思えたら」、それを素直に大切にする、それが「心の潤い」ではないのかと。
 2009年度の大河ドラマ『天地人』を見ていましたら、兼続(かねつぐ)の妻が人と人との「きずな」についてこんなことを述べていました。「きずな」とは、「相手に何をしてあげられるか、それを思い続けること」なのだと。
 この「きずな」を「真心の愛」と呼ぶならば、その「愛」とは、まず自分の方から思い続けるものであり、作り出していくものだということでしょう。死者とのきずなも、人と人とのきずなも、あなたの「目」に、あなたの「心」に、なることから始まるのかもしれません。


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(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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