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 あなたはどちらの自分のほうが好きですか?


本文は、2008年(平成20年)9月4日発行の手紙文集『天国のあなたに』(第10集)に巻頭文として掲載されたものです。


 昭和24年に38歳で私の父を亡くして以来、母は、生活を楽しむ余裕もなく、忍耐強く、一生懸命に生きてきた人でしたが、それを知りながら、感謝らしい感謝も表わさず打ち過ぎてきた自分を申し訳なく思っていました。気がつけば、還暦も、古希も、米寿も、卒寿さえもとうに過ぎていました。
 感謝の気持ちを示すのなら今しかない。それも急を要していることにはじめて気づいて、2年早い白寿はどうかと、平成20年の1月、私と妹、それに私の二人の息子夫婦と孫たちを沼津に呼んで、ささやかな白寿の会をいたしました。両目ともに失明している母は、見えない目を私たちの方に向けながら、生まれて初めて主役となる会を喜んでいる様子でした。どうしてもっと早くしてあげられなかったのだろう、私は安堵しつつ後悔しました。
 祝いの会がこんなにも遅れたのは、私が怠惰であったことのほかに、これまで母が病気一つせず、頭もしっかりしていてくれたことと関係があったのかもしれません。帰省するたびに見る母は、思考力も記憶力も昔のままで、母が元気であることだけで満足し、祝い事など思いもつきませんでした。
 その母に数年前から、わずかな変化が起きていたのは、なんとなく気づいていました。繰り返しが多くなっていました。でも、それほどひどいものでもなく、妹の言葉を聞いても、最初は半信半疑でした。妹はこう言うのです。「最近、母が変なことばかり言って困るの。見知らぬ男が、母の傍らを無言ですっと通り過ぎては、二階に上がって行く、しばらくすると、またすっと降りて来て、帰って行く、そう言うの。どうしてわかるの、って聞くと、すれ違うときに、風が起きるからわかるのだって。二階に誰かいるのではなのかって、執拗に言うので、私も滅入っちゃって。」
 この話を聞いて、即座に、痴呆症のお母様のいる友人の話を思い出しました。そのお母さんの場合は、泥棒が盛んに出入りしては、箪笥にしまってあるお金を盗んでいくという筋書きでした。実際にはお金などしまってはいないのに、そう思い込み、そのつど警察に電話するので、最初は警察もすぐさま駆けつけて来たそうですが、事情がわかってからは、警察の方でも適当に返事をしていてくれるのだそうです。どうやら、妹から聞く母の様子はこれと同工異曲で、明らかに痴呆の始まりと思わざるを得ませんでした。それでも半信半疑だったのは、ときたま帰省する私には、母はしごく正常で、そんな素振りは一度も見せたことはなかったからです。
 その事実を初めて確認するのは、それから幾度か帰省を重ねた後の昨年夏のことでした。いつものように一仕事終え、仏壇に向かっていた母が、しばらくして、思いつめたような顔をして私の傍らに腰を下ろすと、こんなふうに呟いたのです。「松野の姉さんも亡くなってしまったし、横浜のおじさんも亡くなってしまったし、相談したくても相談する人がなくて、母さんもほとほと困っていることがあってね。」
 母の悩みは、妹が言っていた通りの内容でした。見知らぬ男が自分の脇をすっとすり抜けては二階に上がる。ときには、母の顔を覗き込み、そっと触れてみたりして、眠っているのを確かめることもあるのだそうです。
 どう考えても、事実無根の幻想で、やはり痴呆が始まったと考えざるを得ませんでした。しかし不思議なことに、ことこの幻想以外には、判断力も、考える論理の道筋も、変わったところは何一つないのです。どう対応すべきか迷いました。もちろん、そのまま受け入れてしまうのも、ひとつの方法ですが、できることなら、それが幻想に過ぎないことを理解させ、納得してもらいたい。いろいろ考えた末、友人のお母さんの例を引き、知っている限りの同じような症状に触れ、さらには、こうしたことは脳の血管に鬱血があるような場合に起こりがちなことらしいです、というようなことにまで言って、母の判断力に訴えました。
 さて、私事にわたることを長々とお話ししたのも、実は、その直後の母の反応をお話ししたかったからにほかなりません。じっと耳を傾けていた母は、ときおり首を左右に振り、私のほうこそ事実無根の誤解をしているという素振りをします。理解しようとしない私に、悲しげな表情まで見せていました。しかし、しばらくするうち、私の言っていることにも一理ある、と考えたのでしょうか、「そうかなぁ」と母は言うなり、しばらく考え込んでいましたが、それから意を決したように、こう言ったのです。「そうか、わかった。では、あしたから生まれ変わろう。」
 「では、あしたから生まれ変わろう。」母のこの思いもよらぬ言葉を聞いて、私は驚くとともに、新鮮な感動を覚えていました。97歳になる母にして、なお「生まれ変わろう」という新鮮さが生きている。成長し、成熟したいという無意識の願望は、人間の奥深くに埋めこまれている本能の一つだと言われることがありますが、母の言葉を聞いていて、ひどく納得したのでした。
 私たちはよくこんな言葉を耳にし、口にもします。「50、60になって、いまさら変われなんて言われても、変われるはずもありませんよね。」おそらく、それは思い違いなのでしょう。本能の声に従う限り、意識の新鮮さは、50、60はおろか、70になっても、80になっても、母の年齢になっても、生き続けるものであることを、この母の言葉は教えているのかもしれません。


 死別の悲しみは、ときに私たちを再起不能なまでに打ちのめします。しかし、喪失の深い悲しみのなかで、私たちはこれまで知ろうとも、気づこうともしなかったことを、知り、気づいたはずです。死別以前の私たちよりも、遥かに深く、遥かに豊な心の世界を体験しているのではないでしょうか。自分にこう問いかけてみるのはいかがでしょう。「死別前の自分と、死別後の自分と、あなたはどちらの自分のほうが好きですか」と。
 死別後の自分のほうが、ずっと人間らしく、好感が持てるように思えたら、あなたのなかには確実に愛する人の命が宿り、あなたとともに生きながら、あなたを育て、励ましているのです。
 そんなふうに考えられる自分を、素晴らしいとは思いませんか。決して難しいことではありません。逃げることなく、恐れることなく、今のこの悲しみを大切にさえしていれば。悲しみを覚えるたびに、それが、私たちにつながろうとする、愛する人からの信号であり、呼びかけであることに思い当れば。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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