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母 の 力


 母が夫(私の父)を亡くしたのは、昭和24年10月のことで、明治44年7月生まれの母はそのとき38歳でした。父の死因は肺結核。母の手元には、高1の兄を頭に、中一の私と小三の妹が残されました。戦後の貧しさのなかで、母は女手一つで三人の子供を育てることになったのですが、特に教育も特技もない母にできることがあるとすれば、袋張り、風船貼り、ネッカチーフのふちかがりなど、手内職しかありません。手間賃はいずれも一つが銭とか円単位の仕事だったのではないでしょうか。それではとても三人の子供を育てるきれるものではありません。
 この時期はまた、才覚のある男たちにとっては、ビジネス・チャンスの豊かな時代でもありましたから、間もなく隣家の主人が製麺業を営み始め、母は隣家のうどんを行商して歩く仕事を頼まれることになりました。リヤカーにワゴンのような箱を載せ、隣家の女性が前を引き、母はその後ろから鐘を鳴らて歩くのです。母はいまでも時折そうですが、人と話すのがひどく緊張を伴うことであるらしく、人と話した後は必ず一人で、ついさっきまで自分が話していたことをすべて反復してみるのです。そんな母でしたから、多感な中学生だった私は、仕事始めの日の母を忘れることができません。安普請の小さなわが家の窓越しに、家の前を出発しようとしている母の姿を、私は注意深く見つめていました。母も私の目線を感じたのか、チラッと私のほうを見て一瞬ためらい、それから思い直したように顔を上げると、チリン、チリンと鐘を鳴らして、リヤカーの後ろを押すようにして歩き始めました。その「チリン、チリン」が長いこと私の耳にこびりついて、母の悲しみの音色のように聞こえたものですが、悲しみの音色というより、それは、残された子供たちを必死で育て上げようと母の決意の音色だったのかもしれません。
 あれからもう50年。そのあいだには私も53歳で妻を亡くし、母と同じ歴史の一コマを刻んでいました。先日久しぶりで帰った折、同じ体験をした者同士の接点を探りたいよう気持ちがして、それとなく聞いてみました。「ねえ、お母さん、お母さんのこれまでの人生で、一番よかった、幸せだったと思える時期って、いつ頃だったの?」母はしばらく考えていましたが、それからこんなふうに言いました。「そうだね、おまえたちを育てなくてはならないと思って夢中だった頃だったかね。」母が言うその頃というのは、母にとっては一番苦労の多かったはずの時期、あの手内職とうどんの引き売りをして私たちを育てていた、父の死後何年間かのことでした。私はそれを聞いていて、なんだかほっと救われるような気持ちがしました。
 父と死別したばかりの当時の母が時折思いに沈み込み、なんとなくさびしげにしているのが子供心にも見えたものです。そんな苦しい時期に、苦労のすべてを母と、そして三つ年上の兄に押し付け(その兄も、妻の亡くなる一年前に、55歳で他界しました)、私は気ままに進学し、就職し、結婚し、その後も長いこと自分だけの生活にかまけて母のことを忘れていました。そんな私が、苦しかった子育ての時代こそが人生で一番充実していた時期だったという母の言葉て、どんなにか救われた思いをしたことか、想像していただけることと思います。人の子の母というものの運命に、いつか、悲しく、淋しいイメージを重ねるようになったのも、こんな息子でしかなかったという罪の意識が反映してのことかもしれません。
 母の話を聞きながら、しかし私も、あるいはそれが普遍的な真理であるのかも知れないな、と考えていました。自分自身の子育て時代を改めて思い起こしながら、なりふりかまわず、わけもわからず、子供たちがいるというただそれだけのことが、生きる力ともなり希望ともなって、夢中で生きていたあの子育て時代こそが、思えば至福の時代だったかもしれないと思えるからです。
 「あの頃は、1日1日が、まるで今にも崩れそうな吊り橋を渡っているみたいな感じだった」と母は言います。「子供が病気にでもなったら、もうそれこそどうにもならない。どうか子供たちには健康でいてもらいたい。そんな必死の思いから、信仰するようになったのだね。そのお陰か、子供たちが大きな病気という病気もせず、健康でいてくれたから、それでなんとか乗り越えられた。」私は母の言葉を、しみじみと聴いていました。
 その母も、いまはもう95歳(2006年)。60代の頃に患った緑内障ですっかり視力を失っている母の顔を見つめながら、私は心から感謝していました。子育てに必死だった頃の母にとって、遠い将来の私たちの感謝などは思いもよばぬことだったでしょう。年若くして伴侶を亡くされた母親たちを思うたびに、私はいつも母のことを思い出します。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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