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伴侶の死を生かす


 「支える会」では、参加者の皆さんに死の状況を何度となくお話ししていただきますが、その理由は、それぞれの状況を参加者全員で共有し合うことのほかに、一人ひとりが伴侶の死をしっかりと見つめ直し、伴侶の死に対する自分自身の心のあり様を、できる限りありのままに見定めていただくためでもあります。
 自分の悲しみを曖昧なままでなく、できる限り正確な姿で見詰めることが、立ち直りの過程にはとても必要なことのように思われます。理想を言えば、話すたびに、伴侶の死をめぐる自分自身の感情の新たな側面に光が当てられ、新たな受け止め方が明らかにされ、次第にあるがままの姿が浮きあがってくる、そんなセッションになることが望ましいのです。幾度かミーティングを重ねるうちに、夫婦の歴史のなかで蓄積されてきた良い面、悪い面までを含めた様々な側面が自然と語られるようになり、伴侶の死の客観化が行われていきます。立ち直るためには、この客観化という心の余裕がとても大切なように思います。
 自分の悲しみの感情について考えるとき、その悲しみを構成している可能性のある様々な要素について考えてみるのは意味のあることです。悲しみの感情は、決して一つではないからです。
(1)この悲しみには、伴侶への罪意識や怒りが複雑に絡まりあってはいないだろうか。
(2)自分が悲しんでいるのは、伴侶の死そのものが主たる原因なのだろうか。それとも、伴侶の死によって失われた経済力、社会的な地位、有能な援助者、家庭の切り回し役、心の支え、あるいはパートナーとしての側面などを喪失したこと(二次的喪失)が主たる原因になっているのだろうか。
(3)この悲しみは(どこかに罪意識があるため)「伴侶を弔わなくてはいけな」という、「弔い」の意識が気付かずして前面に出たもの だろうか。悲しむことによって、何もしてあげられなかった伴侶へのせめてもの償い、罪滅ぼしという隠れた思いがあるからなのだろうか。(この場合なら、しばらく悲しむことが必要なのです。)
(4)あるいは、伴侶の死が引き金となって、自分自身の死の不安が顕在化され、その不安が原因となって、悲嘆感情が誘発されている だろうか。
(5)現在の悲嘆は、伴侶の死だけが原因だろうか。それとも、それ以前の、別の喪失の記憶が刺激され、それと複合し増幅されて、今の悲しみがあるのだろうか。そうであれば、伴侶の死がなくても、同じような悲しみや、心の暗さは生じていたかもしれません。個人史のなかの過去の自分を振り返ってみることが必要になります。
 伴侶の死は、辛く悲しい出来事ではありますが、この貴重な犠牲をきっかけにして、これまで見たことも感じたこともない世界を、いま私たちは見始めようとしています。愛することの大切さ、命あることの大切さ、人の悲しみと共にあることの大切さなど、いずれも伴侶の死なくしては、これほど切なく、痛切に感ずることはなかったはずです。
 今の私たちにとって大切なことは、伴侶の死の悲しみを忘れることではないはずです。むしろ、この悲しみを梃子にして、自分自身を根本から問い直し、これからの人生を生きるに相応しい新しい自分を発見していくことではないでしょうか。愛することの大切さ、命あることの大切さ、人の悲しみと共にあることの大切さを知る新しい「私」、こんな「私」を作ることができたら、伴侶の命は、私たち自身のなかで確実に生きているといえるのかもしれません。
 今の私たちに大切な心構えは、
 謙虚になること/他人の悲しみを自分自身ものとして共感できること/頑なにならずに、心を開くこと/悲しみを直視すること/自分自身に正直になること/美化しないこと/伴侶の死をあるがままに見ること/怒りがあれば素直に怒ってみること/そして、感謝すべきことがあれば、素直に感謝すること/そして最後に、悲嘆から立ち直ることに、自ら真剣になり、真面目になること。
 それが今の私たちには必要なのです。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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