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悲嘆作業の4つの課題


 悲嘆の作業(立ち直り作業)を進めるには、四つの課題があるとされ、この四つの課題をすべて完了したときに、立ち直りが訪れて来るとされています。これを最初に提言したのは、J・W・ウォ--デン(『グリーフカウンセリングーー悲しみを癒すためのハンドブック』鳴澤實監訳、川島書店、1993年)ですが、ウォーデンの考え方を踏襲しながら,より平易に解説しているのが、N・レイクとM・ダヴィットセン=ニールセン夫妻(『癒しとしての痛みーー愛着、喪失、悲歎の作業』岩崎学術図書、平山・長田訳、1998年)です。ここではニールセン夫妻の見出しにしたがいながら、四つの課題について、私なりの解説を加えつつ説明してみたいと思います。

 第一の課題は、「死を現実のものとして受け入れる」ということです。
 「死を現実のものとして受け入れる」ということは、言うまでもなく、「伴侶の死」を事実として認識するということですが、改めて言われるまでのことではないと思われるかもしれません。しかし、実はこれが口で言うほど容易なことではないのです。
 死を認識するには二つのレベルがあります。一つは「知的なレベル」での認識、もう一つは「感情のレベル」での認識です。例えば、病院の集中治療室で伴侶の死に立ち会うような場合、監視モニターの波状線を見ながら、それが一直線になったときに、私たちは伴侶が亡くなったと認識します。しかしこの時点では、まだただ呆然とするだけで涙も出てきません。頭では(「知的なレベル」では)、死を理解しているのですが、「感情のレベル」ではまだ理解していないのです。涙が出てくるのは、それからしばらくして、例えば、霊安室などで、改めて伴侶と対面したときですが、そのとき初めて涙が溢れ出し、悲しみの感情が湧いてきます。「感情のレベル」でも、死の認識ができたからです。
 死を現実のものとして受け入れるためには、このように、「知的なレベル」だけでなく、「感情のレベル」でも認識できることが必要なのですが、知的レベルの認識よりもより深い感情レベルでの認識は、知的レベルの認識よりも、常に遅れてやって来るのが普通です。
 この二つの認識の違いは、その後の立ち直り過程でも常に繰り返される重要なポイントです。頭ではわかっているのに、感情ではどうしてもついていけないというのが、この現象ですが、本当に立ち直るためには、心(感情)のレベルでも認識され、理解されることが必要なのです。それも、一回限りの理解で済むというものではなく、その後も幾度となく死の事実を思い知らされ、そのつど悲しみを新たにすることで、理解は徐々に深められていきます。深い理解と深い認識が遂げられて、初めて「納得」が訪れるのですが、納得という心の現象は、悲しみの過程を経ることなしには、言い換えれば、悲しみを回避している限りは、訪れることはありません。
 第二の課題は、「悲しみの感情のなかに入る」ことです。
 「悲しみの感情のなかに入る」というのは、「悲しみを悲しみとして感じる」ということですが、これもごく当たり前のことのように聞こえながら、同じように深い内容を含んだ課題です。
 悲しみには、「浅い悲しみ」と「深い悲しみ」があります。「浅い涙の悲しみ」と「深い涙の悲しみ」と言い換えることもできるでしょう。深い悲しみの涙には、浅い悲しみの涙にはない、浄化作用があると言われ、実際に、深い悲しみの涙にはストレス解消ホルモンが多量に含まれていることが科学的にも実証されています。
 より深い感情レベルでの認識と理解には、より深い悲しみが必要なのです。しかしショックや動揺が激しければ、「悲しみ」もまた深いのかと言うと、必ずしもそうではありません。例えば、霊安室に降りて初めて感じられる悲しみも、実は、まだ深い悲しみとは言えないのです。
 深い悲しみは、むしろ、ずっと後になってから訪れて来るのが普通です。葬儀も終わり、四十九日の法要も済ませて、弔問客もまばらになり始める六か月を過ぎるころから、急に侘しさと悲しさを覚えるようになります。深い悲しみが始まったのです。逆説的に聞こえるかもしれませんが、立ち直るためには、むしろ深い悲しみこそが必要なのです。死の事実を認識する場合と同様に、深い悲しみの感情も、折にふれて幾度となく悲しみを新たにする経験を繰り返すことで、次第に準備されていくのです。ですから、悲しみは回避してはいけません。むしろ、幾度となく悲しみと出会うことこそが大切なのです。
 悲しみには、悲しむべき時期があるということも忘れてはならないでしょう。理想的には、死別後六か月から一年のうちに悲しみの感情としっかり向き合うことが望まれますが、別に難しい作業を伴うわけではありません。悲しみを悲しみとして素直に感じ、表出することができれば、それでよいのです。ですから、この時期に、日程表に山ほど計画を詰め込んで、無意識のうちに悲しみを回避してしまうことは好ましいことではありません。
 もちろん生活上の必要から(例えば子育てや経済上の事情などから)、悲しみの感情とじっくり向き合っている暇のないこともあります。悲しみを感じる暇もなく、一年、二年、あるいは五年、一〇年と過ごしてしまう場合もあります。しかし、悲しみは一時的に回避することはできますが、それで悲しみが消え去ったわけではありません。当座の間、意識の奥に封じ込められているだけにすぎません。封印された悲しみは、ふとしたきっかけで、例えば、友人の死、親の死、ペットの死、ときには財布を失うといった些細な「喪失体験」をきっかけにして、勢いよく蘇って来ることがあります。これらは「遅らされた悲嘆」と呼ばれるもので、通常の悲嘆よりも重い症状を伴ってぶり返してくるのが普通です。また悲しみを十分に表出することなく長期間を過ごしてきた場合には、ぐずぐずと悲嘆状態が続く、いわゆる「慢性悲嘆」の症状を呈することもあります。対処する適切な時期を逃すことなく、悲しみに向き合う必要のあるゆえんです。
 しかし、たとえどんな場合にしろ、対応に遅すぎるということはありません。子育ても終わり、自由な時間が持てるようになるとともに、急に言い知れぬわびしさ、寂しさを感じるようになって、二〇年も過ぎてから会に参加される方々も沢山いらっしゃいます。死別の悲しみは、人生のどこかで、一度しっかりと向き合う必要があるようです。しっかりと向き合い、改めて心の整理をすることで、新しい人生への道のりが拓けてきます。
 以上二つの課題は、悲嘆作業の中心を占める部分ですが、さらに二つの課題があります。
 第三の課題は「新しい能力を身につける」ということです。
 夫婦は長い共同生活のなかで、役割分担をして生活してきました。経済を支える仕事や力仕事、事務処理的な仕事は夫の分担、料理、洗濯、近所付き合いは妻の仕事といった具合です。どちらか一方が亡くなると、当然のことながら、残された側は予想もしなかった生活上の不自由さに直面します。残されたのが夫であれば、掃除や洗濯、慣れない食事の用意までしなくてはなりません。味噌汁の作り方すら知らないとしたら、生きることは耐えがたい負担として感じられるかもしれません。不慣れさ、不便さは孤独感を増幅させます。残されたのが妻であれば、煩瑣な書類を見ては無力感に襲われ、電気器具の故障や庭の手入れ、さらには切れた電球の交換にさえ、言い知れぬ孤独感と侘しさを覚えます。
 悲嘆状態からスムーズに抜け出すには、伴侶のいない環境でも、さほどの不自由さ、不便さを感ずることなく生活できなくてはなりません。それには、生前の伴侶が担っていた能力を、残された自分が身に着けなければなりません。これが「新しい能力」を身につけるということです。子育て真最中の妻であれば、夫に代わって一家の大黒柱となるばかりか、ときに息子を厳しく叱る父親になることさえ要求されます。そして最後に、仕上げとなる第四の課題が待っています。
 第四の課題は「感情のエネルギーを新しい形で再投入できるようになる」ということです。
 やや抽象的な表現ですが、簡単に言えば、「新しいことに関心を向けられるようになる」ということです。これまで心は、ほぼ全て死者への思いと悲しみに占められていて、それ以外のことに感情のエネルギー(関心)を向ける余裕はありませんでした。しかし、幾度となく伴侶の死を実感し、悲しみを積み重ねていくうちに、悲しみそのものが次第に様相を変えて来ます。牙をむく厳しい初期の悲しみも次第に和らぎ、優しささえ帯びながら心の片隅に引いていきます。こうして心に余裕の空間が生まれ、感情のエネルギーの一部を死者から切り離して、新しい対象に向ける準備ができてきます。こうしてある日、同窓会に出てみる気持ちになり、しばらくやめていた習い事を再開し、新しい人間関係を受け入れてみる気持ちにもなってきます。第四の課題が始められたのです。死者を離れて、新しい対象に心が素直に向かえるようになったとき、それが立ち直りの印になります。
 しかし、これら四つの課題は、これまで述べてきた順序通りに学習されて行くわけではありません。行きつ戻りつする悲嘆感情と同じように、これらの課題も前後に行きつ戻りつを繰り返しながら、徐々に習得されていくのです。
 例えば、病院のモニターで死が知的に認識され、霊安室で初めて涙を流すとき、「死を現実のものとして受け入れる」第一の課題が行われています。しかし病院から戻ると、「悲しみの感情に入る」という第二の課題に入る暇もなく、葬儀の準備に取りかからなくてはなりません。「新しい能力を身につける」という第三の課題がいきなり飛び込んできたのです。葬儀、四十九日の法要、納骨式とあわただしい行事もすべて終わり、そろそろ半年も過ぎようとする頃、とてつもない寂しさが襲ってきます。弔問客も途絶え、一人身の侘しさをつくづくと噛みしめなくてはならないからです。ここで初めて、「悲しみの感情のなかに入る」という第二の課題が本格的に始まります。
 それから一年、あるいは二年が過ぎて、ある日、同窓会に出席します。「感情のエネルギーを新しい形で再投入する」という第四の課題に挑戦したのです。しかし、結果はかつてなく深い悲しみのなかに突き落とされます。夫のことを楽しげに話題にする友人たちの様子を見ては、改めて伴侶の死の事実を思い知らされ(第一の課題)、一人身の寂しさを実感(第二の課題)しなくてはならないからです。
 このようにして、行きつ戻りつを繰り返しながら、四つの課題は徐々に学習されていくのです。行きつ戻りつを恐れてはなりません。それがあるからこそ、より深い悲しみが準備され、より確かな死の事実の認識が出来上がっていくのです。こんなふうにして、時間をかけて四つの課題をこなしながら、徐々にではありますが、新しい自分が発見され、意味ある立ち直りが準備されていくのです。


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(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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