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ほんの一歩を踏み出すことの大切さ


 死別の悲しみから立ち直るもっとも確かな方法は、同じ体験をした者同士が悲しみを語り合い、共有し合うことですが、ときにそれがスムーズに進まないことがあります。それにはこんな事情があるからです。
 死別後まだ間もないショック時には、大きな悲歎感情に圧倒されて、外に出るという気力が湧いてきません。こんなときには「支える会」のような存在を偶然知っても、とても参加する気持にはなれません。本当はこういうときこそ、このような場が必要であり、有効でもあるのですが、よほどの幸運でもないかぎり、ご縁を持つのは困難です。
 しかし、さらに残念なのは、ショックも治まり、新しい環境に順応する必要にも気付きながら、外の世界や人との出会いが気の重い壁のように感じられて、結局、参加を見合わせてしまう場合です。自分の悲歎感情に関して、極度に防衛的、保身的になってしまっているためと思われます。
 自分の悲歎感情は自分だけに特殊なもので、誰に話してもわかってはもらえないと思うのは、死別を経験した者なら誰もがもつ感情ですが、こうした方々の場合、その感情がずっと強烈なものとしてあるようです。自分以外のひとは、自分を傷つける可能性のきわめて高い、危険な存在にさえ思われてしまうのでしょう。
 そうなると、選択肢は二つに一つしかないことになります。参加そのものを見合わせてしまうか、参加するとすれば、同席者が、年齢、生活環境、ものの考え方など、すべてにおいて限りなく自分に近い存在でなくてはならないことになります。
 実は、そんなときこそ、ほんの一歩を踏み出す勇気がとても必要なときなのです。限りなく自分に近い存在を求めるということは、無意識のうちに自分の分身だけが集まる場を求めるということ、言い換えれば、自己愛的な世界に執着していることを意味しています。急いで付け加えますが、「支える会」の場は、実はやさしさに溢れた愛育的な場、つまり自己愛的な場なのです。ここは、悲しみという共通の体験を基盤にして、参加者たちはどんな思いも自由に語り、受け入れられます。にもかかわらず、本当の立ち直りが可能になるのは、ときに自分とは異質とも思える環境のなかで、これまでの自分を振り返り、新しい自分を見つけ出す意志と勇気を持つときなのです。
 そのためにも、一番必要とされるのは、謙虚さかもしれません。意識せずして自分を保護膜で包んでいるような場合には、つい真実は自分の側だけにあるように思いがちです。自分の傷つきやすさだけが強く意識されて、人の悲しみを聞いていても、自分の悲しさのほうがずっと深刻なのだと、つい思ったりしてしまいます。そんなふうに感じている間は、自分から立ち直ろうとする意志はどちらかといえば乏しく、自分自身の立ち直りでありながら、心のどこかで、他人任せ、他人頼りにしていることが多いようです。人の悲しみによく耳を傾け、それを自分の悲しみとして共感することから、癒しは始まります。なぜなら、そこには、立ち直るためのヒントや指針がいっぱいにあることに気付くからです。
 人の悲しみが素直に聞けるようになること、それが、立ち直ろうとする最初の「意志」の現れでとも言えそうです。そんなときこそ、「支える会」は大きな力を発揮します。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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