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二つの悲しみ


(この文章は、私たちの会で毎年発行している天国の伴侶に送る手紙文集『天国のあなたに』第七集(二〇〇五年七月刊)の「前書き」として書かれたものに加筆訂正を加えたものです。)


 私たちの会では、天国へ一足先に度立たれた伴侶たちに向けて、毎年,手紙文集『天国のあなたに』を刊行していますが、その手紙はいずれも、読む者たちに、常に変ることのない感動と安らぎとを与えてくれます。死者たちを切なく恋い慕う遺族たちの深い思いがあり、生前言い尽くせなかった様々なことを伝えたい、と祈り、願う気持があり、また、すべてを理解し、受容し、抱擁してくれる優しい死者たちの霊ヘの期待と信頼感にも溢れています。死者の思い出には美しいものだけが残るとよく言われますが、これも、死者たちを恋い慕うという、残された者たちに共通した心理に原因してのことかもしれません。
 「支える会」を司会していて痛感するのは、悲しみを語る参加者たちが一様にこの上なく美しく見えることです。それも当然かもしれません。故人のためになし得なかった数々のことを思い起こしては切なく悔やみ、故人の痛みをわが痛みとして慟哭する様子は、清らかな愛を切々と訴える男女の姿にも似ているからです。伴侶の死について悲しむとき、私たちは伴侶の魂と改めて恋をしているのかもしれません。
 悲しみがもしそのような性質のものであるなら、そこに感動と安らぎが、さらには癒しと浄化、成長が伴うのは当然のことかもしれません。その悲しみは、自分自身をおもんばかっての悲しみというよりは、先立った伴侶の平安と幸せをまず考える悲しみであるからでしょう。そこにはどこか愛の本質につながるものがあり、むしろ姿を変えた愛そのものと言えるかもしれません。
 愛する人の死は、こうした種類の悲しみがあることを教えてくれる一方で、これとは別の、癒しと成長を伴わない悲しみもあることを教えています。前者の悲しみとは対照的に、「自分だけにかまけた悲しみ」、「自分だけに終始する悲しみ」がそれではないでしょうか。これは、悲嘆の慢性化と悪性化だけを引き起こして、自分を惨めにするだけです。
 もちろん、悲嘆の内容には、残された者の孤独や不安そのものを悲しむことも含まれているのですから、自分にかまけた悲しみがすべて悪いというのではありません。むしろそれは人間的なことであって、そんな自分を赦し、受け入れることはとても大切なことです。ただ問題は、こうした悲しみだけが唯一絶対であるかのように考えて、いつまでも持ち続け、自分の悲しみの質そのものについて問い直す努力を忘れてしまうことなのです。
 自分にだけかまけた悲しみは、どこか貧しく、干からびた感じがするものです。豊かさ、まろやかさ、潤いに欠けています。豊かさや潤いが感じられないのはそこに命の力が欠けているからですが、悲しみに命の力を求めるのは一見言語矛盾のようでありながら、悲嘆から立ち直るには、命の力を豊かに持った悲しみがとても大切であるように思います。
 このことは、私たちの日常生活を考えてみても理解できることではないでしょうか。貧しく干からびた心の状態からは、幸福感や充足感は生まれません。心が自由と弾力を取り戻し、変化や成長の兆しを持ち始めるのは、わずかにでも豊かさや潤いが感じられるようになったときです。そんなとき、私たちは、やさしさや思いやりの感情を自分以外の対象にも向けることのできている自分自身に気づきます。
 悲しみから愛の本質を学ぶ――これは言うは易くして、実行するのは容易なことではありません。しかし、たとえそうではあっても、自分本位の悲しみに流されそうになったとき、ひと呼吸入れて、「待ってみる」ことはできるのではないでしょうか。一瞬の「間」を入れることができたら、一瞬の辛抱も可能になり、忍耐さえも可能になるかもしれません。自分の悲しみを静かに、できれば深く見詰める忍耐力、これこそが、悲しみのなかに隠されている優しさと愛に近づく手立てなのかもしれません。
 ですから、悲しみを余計者と考えてはいけないのでしょう。それに相応しい尊敬をもって悲しみに接するとき、悲しみはおのずと本来の姿を現して、私たち自身の魂として、成熟として開花してくれるのかもしれません。
 天国の伴侶に宛てて手紙を書くという作業には、こんな大切な意味もあるのです。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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