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いつになったら立ち直れるのでしょう?


本文は、2013年2月24日発行の『支える会通信』22号に巻頭文として掲載されたものです。


 ミーティングの参加者から、時折、「いつになったら立ち直れるのでしょうか?」と訊ねられることがあります。伴侶を亡くされてまだ比較的日の浅い方々に多いのですが、私たちの会には死別後一〇年、二〇年してから参加される方もいらっしゃいます。どれほど時間がたっていようと、ミーティングに参加すれば、昔の悲しみが思い出されます。つい昨日のことのようにも思えて、つい涙を誘われるのです。愛する人の死は、それほどまでに深い記憶を人の心に刻み込むということなのでしょう。
 ミーティングの後のお茶の席で、その日の感想をお伺いすることがあります。すると、日の浅い方々は共通してこんなふうにおっしゃるのです。「一〇年も二〇年もして、まだあのように悲しんでおられるなんて、実のところショックでした。今のこの悲しみがそんなに長く続くのかと思うと。」と。
 しかし、この理解は、すべての点で正しいとは言えません。確かに死別の悲しみは後々まで残りますが、それは形を変えて残るのであって、当初の悲しみがそのまま残るわけではありません。質も内容も変わってきます。その後の悲しみをどのように捉え、理解していくかが、死別後の生活を意味あるものにもし、無意味なものにもしてしまう、とても大切なことではないかと思います。
 「立ち直る」という現象を、「悲しみが薄れ、以前とほぼ変わらぬ程度の元気を回復すること」というほどに理解するなら、普通、立ち直りに要する時間は、平均して二年ないし三年と言うことができるでしょう。しかし、立ち直りの時間には個人差がとても大きく、その人の性格、これまでの生活歴、人生観、生き方などによっても大きく左右されます。三か月から六か月で早くも立ち直ってしまう人もあれば、五年、一〇年と悲しみを長引かせる方もおられます。
 概して言えば、愛する人を亡くした直後から激情的なほどに嘆き悲しむ人ほど、立ち直りは早いというのが普通のようです。しかし大多数の方々は、その都度その都度に悲しみと向き合いながら、ゆっくりと克服して行くことになります。死別の悲しみに関する限り、一見どんなに重篤と見えるような悲しみでも、十中八九までは正常範囲内の悲しみであって、立ち直りが早いから良くて、遅いから悪いということはありません。悲しむという感情は、「弔う」という気持ちと深い関係にありますから、自分なりに死者への弔いが十分にできたと感じられる時間は、人の息の長さと同じで、その人その人によって異なってきます。まだ弔いが十分ではないと心のどこかで感じていれば、無意識のうちに自分で立ち直りを遅らせていることもあります。立ち直りの作業においては、自分では意識しないさまざまな理由や理屈も働いているのです。

立ち直るということ
 一言で死別の悲しみと言いますが、すでに述べてもきました通り、その内容は実に複雑多岐にわたっています。夫は、大きな経済的支柱であったばかりでなく、パートナーであり、孤独の癒し手、話し相手、愚痴の聞き手、諸事にわたる相談相手、煩雑な事務処理の担い手、妻の社会的地位の担い手でもあったのです。夫を失うということは、夫が担っていた内容すべてをいちどきに失うことを意味しています。そればかりか、夫を失った瞬間から、夫の側の親族や親きょうだいとのバランスが急に崩れたり、自分がこれまで担ってきた家族内での位置関係までが大きく変ってしまうことすらあります。
 これだけ多様な意味内容を持つ伴侶の死であれば、死別直後の悲しみが、悲しみと言う前に、不安や恐怖の入り混じった混沌としてまず意識されても不思議ではありません。こんなときこそ素早い立ち直りが直ぐにでも欲しいところですが、残念なことに、この状態にある間は、立ち直り作業が即座に開始されるというわけにはいかないのです。立ち直りの作業が始まるためには、逆説のように聞こえますが、ある程度心の鎮静化があって初めて始まるのです。したがって、当座の間は、いずれ心の状態が落ち着くことを信じて、苦しいながらも、今の不安や悲嘆の感情にあらがうことなく、とにかく一日一日を無事過ごすことだけに専念するのがよいのです。抵抗された感情は逆に居座ることがありますが、抵抗されない感情はいずれ静まってくれるからです。
 やがて落ち着きが戻るとともに、悲嘆の解きほぐし作業(つまり、立ち直りの作業)が始まります。解きほぐし作業と言っても、別に難しい作業が必要なわけではなく、悲しみの感情を素直に感じ、表現すること、新たな悲しみの感情に幾度となく見舞われること、それが解きほぐし作業に当たるのです。ことある毎に繰り返し悲嘆の感情を体験することで、悲嘆を構成しているさまざまな要素の一つひとつと出逢い、それを確認し、吟味することで、納得と受容のための準備が整えられていくのです。これが普通、「日にち薬」という名前で呼ばれている一般的な癒しの過程です。
 こうして当初は、伴侶の病や死に関わる脈絡のない記憶や光景が、意志のコントロールのないままに、ただ唐突に、闇雲に喚起されるだけでしたが、次第にその無秩序な状態も収まり、悲しみの対象も特定化されてくるようになります。特定化されてきた対象や事柄をまたしばらくは幾度となく思い返し、そのつど悲しみの感情に襲われながら、やがて、その間隔も間遠になって、ついには遺品を見たり、思い出の場所に出かけたり、命日や記念日などが来るごとに、ふと悲しみの感情がよみがえってくるという程度までに落ち着いてきます。
 立ち直るためには、悲しみの感情から逃げないことがとても大事です。また、悲しみは素直に表現することも大切です。そして、悲しみには繰り返しが付き物です。少し元気になったかと思うと、次には以前よりさらに深い落ち込みがあり、それが済むと、また明るさを取り戻す。この行きつ戻りつが立ち直りの過程では大事なのです。行きつ戻りつしているうちに、当初の混乱した悲しみは次第に整理されて、より深く、より本質的な悲しみだけが残されていきます。立ち直るためには、この「より深く、より本質的な悲しみ」を体験していくことがとても大切なのです。行きつ戻りつを繰り返すことで、悲しみを構成するほぼすべての要素が吟味され、理解し終わったと思われる頃に、自分なりの納得と、死の受け入れができてきます。これが、普通言われる立ち直りのメカニズムです。

立ち直ってもなお悲しみが訪れるのは
 死別後二年ないし三年して訪れてくるこの立ち直りを、便宜的に「第一次の立ち直り」と呼ぶことにします。これは別に、第二、第三の立ち直りがなくてはならないと言っているのではありません。一回の立ち直りで、悲しみを見事に克服されている方々も沢山いらっしゃいます。でもそれは、ただ外側からそう見えるだけのことなのかもしれません。最初の悲しみが薄れ、消えたかと思えるようになった後にも、伴侶の死という事実と記憶は消え去ることなく残るからです。命日が来たり、思い出の場所に出かけたりすれば、やはり悲しみの記憶は立ち戻ってきます。立ち戻るだけでなく、その記憶が遠い昔の伴侶の面影を呼び覚まし、当時の自分の愚かさ、至らなさに対する深い後悔の思いを引き起こすこともあるでしょう。
 しかし立ち直り後に再来する悲しさには、かつてのようなとげとげしさはありません。むしろ、遠い昔を追憶させる優しさや懐かしさ、人生を遠くから眺め、見詰め直そうとする思慮深さまでを伴うのが普通です。そんな優しさを秘めた第二、第三の悲しみは、私たちにこう問いかけているのかも知れません。「死別の悲しみは無駄にされてはいないだろうか。」「悲しみは正しく消化され、意味あるかたちで生かされているのだろうか。」「伴侶の死という貴い代価を払った自分は、果たしてその犠牲に見合うだけの自分になり得ているのだろうか。」そして、「今の私は、積み重ねられた悲しみの年月に相応しい私であるのだろうか」と。
 一見、悲しみのぶり返しとも見えるその後の悲しみは、こうした意味での、第二、第三の立ち直りを要請する内なる声なのかもしれません。最初の立ち直りが死別の悲しみからの立ち直りであるならば、それに続く第二、第三の立ち直りは、今ある自分自身により意識的になり、より自覚的になるための、「自分自身からの立ち直り」と言えるのかもしれません。


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(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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