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「記憶」の重さ


本エッセイは、私たちの会報『支える会通信』13号(2008年12月26日発行)に巻頭言として載せたものです。


 年齢を重ねることには確かにさまざまな不安や悲しみが伴いますが、その一方で、じっくりと深まりゆく幸せもあるようです。そのひとつが、「自分のなかには記憶が生きている」という、変哲もない事実の幸せを、ときおり実感することかもしれません。
 「記憶」は「思い出」とは違います。「思い出」は思い出すべくして蓄えられた記念品のようなもので、卒業式や結婚式のアルバムに収められた写真にも似ています。いずれ楽しく思い出すために意識的に準備されたものが「思い出」ならば、「記憶」は将来の使い道などとは一切無関係に、生きている刻々の体験のなかから、整理されることもなく、秩序立てられることもなく、無意識のうちに蓄えられていくものです。ですから、「記憶」は記憶されたという事実にすら気づいていません。
 しかし私たちの命の力、あるいは無意識の力は実に偉大で、こうして脈絡もなく、秩序もなく蓄積された「記憶」も、いつか時間とともに整理され、意味づけられ、体系化さえされて、記憶の整理棚に仕分けられ、納められていきます。そしてあるとき、ふとした刺激、たとえば悲しさや懐かしさ、後悔や自責、安堵や幸福感など、その折々の気分や感情によって刺激されると、たちどころに連想を伴いながら、整理棚から引き出されてきます。これが「記憶」ですが、こうして再現された記憶は、もはや些細な記憶と言うより、豊かな意味や象徴性をすら帯びた記憶に変じているのがしばしばあります。
 妻を亡くしたばかりの頃、結婚する前の妻を、郷里の海辺にはじめて案内した日のことをしばしば思い出すことがありました。後悔と自責の念が引き金になっていたのかもしれません。
 その日はどんよりと曇った日で、沼津の海は心なしか暗く波立っているようでした。人気のない海辺を歩いているうち、突然、妻が「あら、可愛いわね」と言って、波打ち際に近い方を指差します。小さな女の子が、暗い波打ち際でひとり無心に遊んでいるのが見えました。「本当にね。」私はそう返事はしたものの、妻が言うほど特段の感慨もなく、ただ、何となく寂しげな光景だなと感じながら、幼女の様子をぼんやりと眺めていました。変哲もない記憶だったはずですが、妻の死後、それは別物になっていました。
 結婚してからしばらくの間、妻は私のことを「オンちゃん」と呼んでいました。その呼び名の意味がわからず、妻に尋ねたことがあります。「オンちゃん」というのは「お兄ちゃん」のことだと彼女は言い、それから昭和20年6月18日の浜松大空襲のときの記憶を話し始めました。彼女には私の知らなかった2つ年上の兄があったのですが、この大空襲の日、この兄だけが家族からはぐれ、翌日、とある避難場所で小さな焼死体となって見つかったというのです。彼女には長兄も姉もいましたが、兄とは10歳、姉とは7歳離れていましたから、当時7歳だった彼女にとって、2歳年上のこの兄は特別な愛着の対象だったに違いありません。この兄の死が、心の奥底に深い悲しみを刻んでいたとしても不思議もなく、彼女は私にその兄を求め、癒しを求めていたのかもしれません。果たして十分応えたのだろうか、私の自責が始まりました。
 大学卒業後、私たちはそれぞれに仕事を持ち、しばらくして結婚し、ハイ・スピードで動く人生の歯車をなんとか乗りこなしながら、子育てをし、自分なりの仕事をし、人生の充実を築いていた、と私は私なりに思っていました。しかし今にして思えば、その人生の充実は、二人のための充実と言うよりは、自分のためだけの充実であったのかもしれません。人間の理性は、しばしば自分だけを擁護する理性であり、合理性でしかないことが多いからです。妻の女性的な生き方を、ときに理屈の通らない生き方として遠ざけていたかもしれません。
 私は、本書でもすでにとりあげた「星から来た女」に登場する男と同じだったのかもしれません。女は地上の男と結婚する条件として、天上から携えてきた籠の中を、彼女の許しなしには、見てはならないという約束を男にさせ低ました。二つ返事で約束した男でしたが、その籠はいつの間にか家の片隅に追いやられ、その存在さえ忘れ去られてしまいます。ある日、籠の中を盗み見た男は、突然、軽蔑したように大声を立てて笑い出します。籠の中は、空だったのです、少なくとも、男の目にはそう見えたのです。「籠の中を見たのですね」と悲しげに男を責める女に、男は言います。「見たとも。ふざけた女だ。あの中には何もなかったぞ。」女は悲しげに続けて言います。「籠の中に何も見えなかったと言うのですか。」「そうだ、何にもな。」それを聞いて、女は淋しそうに男に背を向け、何処ともなく消え去ります。
 籠のなかには、自己本位の理性の目には決して見えない、何か大切なものがあったのですが、それを見るには、それなりの心の成熟が必要であり、男にその成熟はまだ訪れてはいませんでした。私もまたある日、妻がふと漏らした寂しげな言葉を忘れることができません。「結婚って、やはり誤解なのかしら。」
 妻の死後、あの日の海辺の光景は、単なる一片の記憶ではなく、無限の内容をはらんでその意味を問いかける、重い風景に変貌していました。
 暗く波立つあの日の海は、海辺でひとり無心に遊ぶ寂しげな幼女の姿と一つになって一幅の絵を構成し、孤独で、寂しげな妻の心の風景を描き出し始めました。浜辺にいたあの幼子は彼女自身ではなかったのだろうか、だからこそ、彼女はあれほどの強い共感を幼女に覚え、幼女を「可愛い」と表現していたのではなかっただろうか。
 変哲もない一片の記憶が、背負い切れないほどに大きく深い意味内容を伴って迫ってきます。それは、その記憶が、妻の死という不可逆の喪失を通して見直されているからに違いありませんが、また、こんなふうにも考えられはしないでしょうか。一瞬一瞬の記憶のなかには、実は、常に、背負いきれないほどの、耐え切れないほどの、悲しみや喜び、感謝や自責が溢れるほどに詰め込まれているのではないのかと。ただ、瞬間、瞬間を生きている私たちには、その事実が見えないだけなのだと。
 アメリカの劇作家にソーントン・ワイルダーという人がいますが、彼は一瞬一瞬の重みを常に描き出そうとした人でした。彼の有名な作品に『わが町』というのがありますが、この作品の最後の場面は墓地のシーンになっています。舞台中央右よりには10脚ほどの椅子が並び、それが墓地で 椅子にはすでに亡くなった町の人たちがコーモリ傘をさしながら静かに座り、ときおり囁きあったりしています。その日、新たな仲間が加わってきます。2番目の子供のお産で亡くなった26歳の年若いエミリーです。死んで間もない彼女は、一方では死者の安らぎを感じながらも、もう一方では、もう一度だけ現世を訪れてみたいと望みます。死者たちはこぞってそれに反対します。悲しい気持ちになるだけだからと。「あなたは生きるだけでなく、生きている自分を眺めることになる」、いや「生きている人たちには見えないものまでが見える」のだからと。結局、彼女はこれまでの人生で一番平凡なある1日、14年前の12歳の誕生日を選んで、その日に帰ることにします。
 ごくありふれた一日が始まります。いつもの牛乳配達人の声、子供たちを起こす母の声、講演旅行から帰って階下からエミリーに呼びかける父の声、誕生日のお祝いの品々を準備する母親。しかし、エミリーはたちまち耐え難い苦痛を覚え始めます。未来に起こる数々の不幸も知らず、幸せそのものにしている父母、エミリーに向けられる両親の何気ない愛情、それらすべてが、刻一刻が、あまりにも大切で、あまりにも見るべきものに充満していて、エミリーはついに耐え切れずに死者の国に戻ってきます。
 もし私たちが、エミリーと同じように、瞬間に込められたすべての意味が理解できたら、きっと、その瞬間の有難さに、悲しさに、自責の念に、美しさに、耐え切れないことでしょう。瞬間の記憶は追憶のなかで、その意味の深さを知り、感謝し、喜び、悲しむのが人間的なのかもしれません。追憶の有難さは、たとえ一瞬、慟哭衝動に襲われようとも、それ以上には深刻化することもなくすむことです。泣きじゃくる赤子が間もなく母の胸のなかで眠り込むように、追憶という母の懐がほどなく癒してくれるからです。
 にもかかわらず、生の充実を願うなら、恐ろしいほどに満ち満ちたこの瞬間を、十全に生きてみたいとも思います。瞬間の充実が生きられたら、どんなに幸せなことでしょう。
 でもふと、この恐ろしいほどの苦しさと充実を、いつかどこかで生きていたようにも思います。一刻、一刻を大切にしながら、愛する人の命とともに生きていたあの日々、あれがそれだったのではないでしょうか。改めてこんなふうには思うことはありませんか。
 生の充実を望むのなら、やはり死とともにある日々を忘れてはならないのだと。死の意識のあるところに、生の充実もあるのだと。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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