←日本グリーフ・ケア・センター トップページに戻る

ああ、生者の愚かさを赦し給え


 (「支える会」に参加される方のなかに、ときおり、「私は立ち直りたくないのです」、「私は悲しみを忘れたくないのです」とおっしゃる方がいらっしゃいます。そんなとき、一瞬、戸惑いを感じながら、「でも、そのとおりに違いない」と思うことがあります。死者の記憶は、掘り起こされ、思い返されるたびに、私たちに清らかな命の息吹を吹き込んでくれるからです。私もそんな「忘れたくない」人間の一人なのかもしれません。この文章は、『天国のあなたに』第9集(平成19年9月6日発行)の巻頭文として書かれました。)


 「支える会」に参加される方のなかに、ときおり、「私は立ち直りたくないのです」とおっしゃる方がおられます。そんなとき、一瞬、戸惑いを感じながら、「でも、そのとおりに違いない」と思うことがあります。死者の記憶は、掘り起こされ、思い返されるたびに、私たちに清らかな命の息吹を吹き込んでくれるからです。私もそんな「忘れたくない」人間の一人かもしれません。
 一生のうちには、一度ならず死別の悲しみと出くわしますが、死がもたらす不安と恐怖、責任と決断の重さにおいて、伴侶との死別の場合はまた特別です。これまでは誰かしらがそばに居て、その責任を引き受け、あるいは分担し、援助してくれました。しかし、伴侶の場合に限っては、そういうわけにはいきません。
 伴侶との別離がとてつもなく不安であるのは、それが、これまでとは別種類の、未知の出来事であるからかもしれません。初めての子育てのときのように、自分の知らないことばかりで、すべてに確信がもてず、おろおろするばかりです。
 しかし、それだけではありません。残された時間を豊かなものにしてあげたいと焦れば焦るほど、ときに癒しがたい罪と後悔の苦悩を引き起こすこともあるからです。私もそうした勤めを果たそうと考えましたが、その幾つかは悔恨と罪意識のトラウマとなって、今でもときおり思い出さずにはいられません。
 妻は、平成2年9月に、S字結腸のガンで手術を受けました。ガンはすでに腹膜に転移していて、医師は「余命6ヶ月」と宣言しました。手術後暫くして、車椅子の妻と共に病院の中庭に出たときのことです。「手術はどうだった?」と妻が訊きます。「うん、手術は、成功だった。」と曖昧な答えをする私に、妻は重ねてこう訊いてきたのです。「なんだか冴えない答えね。まさか、2年とか、4年とかいったことではないのでしょう?」それにも「うん」と生返事をしたのですが、このときほど罪の重さを感じたことはありませんでした。2年とか、4年という尺度で予後を考えている妻に、どうして「6ヶ月」などと言えるでしょう。死という厳粛な事実を前にして、なおこんなふうに偽る自分が、悪魔のようにも思えたものです。
 その年の12月中旬に妻は退院、すぐ仕事に復帰しますが、すべてを知る者の苦しさを思い知らされるのはそれからのことでした。日々、彼女のなかに新たな症状が現れてきます。それを見つめることになったのです。まもなく「足が痛い」と言い始め、コーモリ傘を杖にしながら、遠い仕事場から足を引きずるようにして帰ってきます。ある日妻はこう言うのです。「わたし、これから杖を使う。杖を使うことなんて、なんでもないことだもの。」襲いかかる運命を、一つ一つ甘受していく妻を見るのは、なんとも辛いことでした。妻のいびきが、心なしか大きく聞こえ始めたのもこの頃です。ある夜、寝室の闇の奥から、悲痛な独り言が聞こえてきました。「ああ、困ったな、大変なことになってしまったな。」その声を、身の凍るような思いで聴いていました。
 「ねぇ、もし私が死ぬってことがわかったら、きっと外国旅行に連れてって。約束してね。」と、妻がぽっつりと言いました。退院してまだ間もない翌年の1月、まもなく春休みが始まろうとする頃でした。「うん」と答えはしましたが、動揺しました。その春には下の息子の大学受験が控えていたほか、外国旅行に出ることは、すなわち事実を明らかにすることでした。それに、共稼ぎの私たちには、共通の時間を見つけるのはそれほど容易ではありません。私の躊躇を感じたのか、妻はこう付け加えました。「あの子の受験がうまくいったらね、きっとよ。」
 幸か不幸か息子の受験は失敗し、その話は自然のうちに立ち消えて、妻は即座に気持を切り替え、気丈な妻の日常がまた始まりました。
 妻との約束を実行するなら、体力のあった退院直後のこの時期を除いてはなかったはずです。約束違反は心の大きな重荷となって、私を苦しめ続けました。告知さえしていたら、病状を正直に伝える勇気さえあったら。
 しかし、初めての診察から帰ってきたときの妻の言葉を、忘れることができません。「いっとき、わたし、病院から、すべてから、どういうわけか無性に逃げ出したい衝動に駆られたの。」
 しかし、私が今なお胸を痛めるのは、果たしてそれだけの理由だったか、と考えるときです。生者の愚かな思い違いがなかったか、と考えるときです。
 外国旅行の約束を妻が私に迫ったとき、あるいはこう付け加えていたかもしれません。「そしたら、わたし、仕事を辞めるから」と。その記憶が曖昧なのです。曖昧なのではなく、願望的な記憶喪失を起こしているのだ、と疑いたくなるほど、仕事を辞めるよう強く勧めなかった自分に不甲斐なさを覚えます。ガンがすでに腹膜に転移しているのがわかったとき、もちろん、これ以上仕事をさせてはいけないと思いました。疲労を避けることが延命につながるはずだと、なんど考えたかしれません。にもかかわらず、私は、迷いました。妻は仕事を愛している。その妻から仕事を奪うことは、希望を奪うことと同じではないのか。それに差し迫った死を知らせることが、本当に彼女の延命につながるのか。私は主治医に相談してみました。主治医の答えは、疲労と延命とは特に関係がなく、むしろ今の情況では、人生の「質」も大切だ、というものでした。それでも私は悩み続けました。ところが、退職後の妻の生活をふと想像した瞬間、脳裏に突然、6ヵ月先の妻の葬儀の場面が思い浮かんできたのです。家族以外には参加者もまばらな、寂しい葬儀の姿でした。今なら彼女を慕う学生たちや先生方で満ち溢れる葬儀がある――。
 恐れを持って、私はこう自問します。この想念と、彼女が仕事を続けたこととの間には因果関係があったのだろうか、と。それともこれは、ただ単に、赦される範囲内の、あまりにも愚かで、あまりにも人間的な善意の現れであったのだろうか、と。神ならぬ人間が考えるには、あまりの不遜としか思えなかったからです。
 病状は次第に悪化し、5月に入ると、主治医は再入院を勧めるまでになりました。しかし、主治医はこうも言いました。「入院したまま、出られなくなる可能性もあります。社会生活をできるかぎりさせてあげるのも、一つの道です。」祈るような気持ちで、妻に再入院を勧めましたが、妻はただ「まだ仕事があるから、いま入院は考えられない」と言うばかりです。ある朝、出勤する彼女を、私は思わず合掌して送り出してしまいました。妻は一瞬怪訝そうな顔で私を見、それから自分も軽く合掌の姿勢をとると、何気ない様子で出て行きました。
 夏休みに入る直前のある朝、自分でもよほど異常を感じたのでしょう。「今日は入院して、点滴してもらう」と言い出しました。「元気をつけないと、明日最後の授業ができないから。」最後の授業に、妻は病院から通うつもりでした。窓口で、いつもの明るい調子で、事務員にこう言っていました。「今日入院します。よろしくね。わたし、ぜひ二本の足で歩いて退院したいと思います。」そう言って彼女は、カウンターの上で、人差し指と中指とを歩く様な格好で動かして見せました。
 5時間かけて点滴した後、入院用の荷物をとりに、ひとまず帰宅。病院に向かう前に、用心のために、彼女は最後の洗腸にとりかかりました。ストーマからは真っ赤な潜血があふれ出し、彼女はそれを驚いたように見つめていました。入院する必要をやっと納得したようでした。
 再入院後は、まるで坂から転げ落ちるようでした。主治医の回診も間遠になっていきました。しかし、私としては、ただじっと終焉を待っているわけにはいきません。思いは妻も同じでした。
 8月10日、新しい病院に、期待をこめて移ることになりました。その日は、前日の台風の余波を受けて、風の強い、雨模様の日で、天地までが動揺し、騒ぎ立てているようでした。これが転機となってくれることを、祈るばかりでした。
 転院先の病室は、箪笥も机も揃う個室で、その豪華なたたずまいを見てほっとしました。そんな気持ちが私の顔にも出たのでしょう。「あなたも、ほっとしたでしょう。顔でわかる」と妻が言います。思えばこの個室は、倹約を貫いてきた妻の生涯ただ一度の、そして最後の贅沢でした。妻の衣類や化粧道具を、箪笥や戸棚に整理し始めたときのことです。突然、激しい胸の痛みを覚えました。なんと、妻の衣類や道具類のすべてを、10年前、一家でアメリカ旅行をした際の、大型の旅行カバンに詰めてきたのに気付いたのです。強烈な罪の意識とともに、妻との約束を思い出しました。「もしわたしが死ぬってことがわかったら、きっと外国旅行に連れてって。約束してね。」その約束を果たせなかっただけで、もう十分すぎるほどに苦しんでいたのに、よりにもよってこんなときに、こんな形で、外国旅行をなぞろうとは。自分の犯した償いようのない過ちに、しばらくはただ呆然とするだけでした。妻は、その1ヵ月後、平成2年9月8日に52歳で逝去しました。
 愛する人の死をめぐっては、誰にも、重くのしかかる記憶は数多くあるのでしょう。その幾つかは、もう決して赦されるはずもないと思えるほどに重く、罪深く感じられるかもしれません。でも、私は考えました。赦されるはずもないと思えたこれらの記憶も、長い時間の後で思い返せば、そのときどきのいじらしいほどに真剣な、そして悲しいほどに人間らしい、善意の愚かさが引き起こしていたのではなかったかと。今年もまたまもなく、妻の命日がやってきます。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

Copyright (C) 2007 日本グリーフ・ケア・センター, All rights reserved.