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それが突然の死であろうと、      
  長い闘病の末の死であろうと


本エッセイは本会発行の手紙文集『天国のあなたに』(平成28年1月20日発行第17集)の巻頭文として掲載したものです。


 愛する人を亡くされた方々とお話していて、いつも感じるのは、それが突然の死であろうと、病魔との長い闘いの末の死であろうと、愛する人の死は、残された者に必ず何かしらの後ろめたさや罪の意識を残さずにはいないものだということです。
 残されるのが妻であれば、夫の健康にもっと注意をしていたら、こんなことにはならなかったのではとか、ひょっとすると、自分の作る食べ物に原因があったのかもしれないとか、そもそも私と結婚さえしていなかったらこんなことにはならなかったのではないかしらとか、後悔の思いはとどまることを知りません。
 入院して、大きな手術を受けるような場合、一度その病院で手術を受けたら、最後まで同じ病院にとどまるのが通例の今の医療状況では、最初の病院選びが何よりも大事なことになるのですが、家族がそのことに気づくのは、大抵はすでに手遅れになってからです。病院を選んだのが自分である場合は言うまでもなく、連れ合いが何気なく口にした病院に、深く考えることもなく、安易に同意してしまった場合にも、自分の安易さ、無責任さを責め立てる自責の思いは尽きることを知りません。愛する人の死に関する限り、相手の病に自分が無力であるというそのこと自体が、すでに一つの罪なのだと言えるほどです。
 参加者たちのそんな苦しみの声を聴いていると、今から二六年前、同じ思いを抱きながら、藁をもすがる思いで訪れたある病院の医師の言葉を思い出さずにはいられません。そのときには理解できなかった、というよりは、あえて理解しようともしなかった医師の言葉が、長い時間を経過した今、真実を伝える言葉として、意味深く納得できるようになったからです。
 二六年前、病院の選択については私もひどく自分を責め、日ごと病を重くしていく妻の様子をただ見ている自分に、言いようのない罪の意識を覚えていました。
 妻は不調を訴えながら病院に行くのをためらい、それからある日、病院の名前を挙げて、「あの病院でいいかしら」と訊いてきたのです。私は深く考えることもなく、「あれだけの構えの病院だもの、大丈夫でしょう」と言い、それから一瞬言い知れぬ不安を覚えたのを覚えています。
 その不安は的中して、検査の結果は黒、それもかなり進行しているS字結腸癌らしいとのこと。妻はその日のうちに入院し、一週間後には手術をしました。  手術後、主治医は私を呼び出し、「手術は成功でした」と言い、こう続けたのです。「しかし残念ですが、腹膜に転移していました。」
 病気というものにまるで無知だった当時の私に、その意味のわかろうはずもありません。「でも、直るのですね」と即座に問い返すと、主治医は「間もなく再発することになります」と言う。まるで靴の上から痒いところを掻くように、真意がよくつかめません。質問を重ねるうちに、どうやら妻が六か月後には亡くなると言っているらしいことがわかりました。「いいですか、わかりますね、腹膜に転移しているということは、どこに癌が播種しているのかわからないということで、手術のしようもなく・・・・・・」。このときほど、医学と医師の力を恨めしく思ったことはありません。病気を治すのが医師ではないか、そのための医学ではないのかと。
 今にして思えば、妻の死は、医師のせいでも、病院のせいでもなかったはずです。腹膜に転移してしまった以上、どの病院を選んでいても、早晩、結果は同じことになっていたに違いありません。
 しかし当時の私にそんな判断力が許されるはずもありません。深く考えることもなく、気安く安易に同意してしまった無責任さが、重い罪の意識として、取り返しのつかない過として、私に重くのしかかることになりました。と言うのも、手術をしてからほどなく、手術中にもリアルタイムで転移状況を検証できる病院があったことに気づいたからです。
 私の後悔の思いは、主治医の人となりによっても助長されていたのかもしれません。悪い人ではなかったのでしょう。しかし五〇年配のその主治医は、当時の医師にありがちな(今でもあまり変わっていないのかもしれません)、患者や患者の家族の心理的ケアにはおよそ無頓着で、自分の意向に染まなければ無遠慮に怒鳴りつけるという人でした。看護婦たちの教育も不十分で、直接患者だけに接するときの態度と、医師同席のもとに接するときの態度とが、まるで一八〇度違うのを、にがにがしい思いで観察することもしばしばでした。
 妻は二か月半ほどでいったん退院、しばらく小康状態を保った後、七か月後には再び入院することになりました。再入院後は、まるで坂道を転げ落ちるように病状を悪化させ、間もなく腸の動きもままならぬ状態になりました。直る見込みのない病人には、回診の手間ひまも必要ないと言わんばかりに(患者の家族にはそう思えるものです)、主治医の足も遠のいていきました。
 ベッドに横たわる痛々しい妻の姿をただ見ている以外に、もう私にできることはありません。時間だけが、刻一刻と過ぎていきます。この瞬間にも何か出来ることがあるのではないか、ただ黙って時間を見過ごしているだけでいいのだろうか、私は次第にいてもたってもいられなくなりました。噂に聞いた蓮見ワクチンを取り寄せる決意をしたのもこの頃ですが、これは不幸にして、たった一度使っただけで、主治医から厳しく禁止を命じられてしまいました。
 そろそろ妻の死も覚悟しなくてはならないと思い始めた頃、私は改めて病室の中を見回わしてみました。妻が死を迎えるには、そこはあまりにもみすぼらしく、あまりにもみじめな場所に思えました。妻にはもっとふさわしい場所を見つけてあげたい、できれば、妻が望んでいる新しい治療法も見つけてあげたい。
 この先生とお会いすることになったのは、こんな折のことでした。故郷の町にいる妹に事情を話したところ、彼女の勤め先の上司で、かつて東京の病院で大腸がんの手術をして元気になられた方がおられるというのを知り、その方を通してご紹介いただいたのが、この先生でした。
 私は希望に胸をふくらませました。そうだ、妻を受け入れていただけるか訊ねてみよう、なにか有効な手立てがあるのかも聞いてみよう。私は一条の光を求めて出かけてみることにしました。
 その先生は年の頃五〇代後半から六〇代前半ほどの方だったでしょうか、大柄できりっとした、感じの良い方でした。私は妻の病状を詳しく述べ、今では主治医にも見放されているらしい妻を、ただ傍らで黙って見ているのが何としても耐えられない、と訴えました。先生はただ黙って聞いていましたが、それから間もなく、こんなふうに話し始められたのです。「あなたは優しい人なのですね。さぞ、お辛いことでしょう、よくわかります。でも、身近な人の死というのは、考えてみると、哲学の一部でもあるのですね。皆さんは、医者なら誰でも直せると思われるかもしれません。でも、そうはいかないのですね。実は私には弟がいたのですが、つい先日、その弟を癌で亡くしました。医者の家族なら直せないはずはないとお思いになるでしょう。でも、そうはいかないのです。あなたは今、奥様のことで大変苦しまれ、耐えられないほどの罪深さを感じていらっしゃいます。でも、これから五年がたち、一〇年がたってから、今のこのときのことを思い起こされることがあるでしょう。そのとき、あなたはきっと、ああ、あのときには、あれしかなかったんだ、ああする以外に方法はなかったんだと、きっと納得なさるに違いありません」と。
 妻を受け入れていただくことはかないませんでした。死が哲学上の問題の一部であるということも、あのときには敢えて理解しようともしませんでした。しかし、時間を経た今、その先生の言葉が、実感としてとてもよく理解できるのです。
 参加者の皆さんの苦しい声に接するたびに、私はこのときの先生の言葉を思い起こし、そのままお伝えすることにしているのです。愛する人を喪いかけたとき、人は誰しも涙ぐましいほど真剣になり、一生懸命になり、それ故にまた、ひどく愚かにもなるものです。しかしその愚かさは、一心不乱さ故の愚かさであり、それ故、美しいとさえ言える愚かさであったことに、いずれ気づくことになるのです。


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(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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