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人生の晩年で、何がありがたいかと言えば  
       ……「今日」の命を生きる喜び


本エッセイは、2021年8月30日発行の機関誌『支える会通信』に掲載したものです。


 人生の晩年で何が一番ありがたいことかと言えば、望めばいつでも手の届くところに、友人がいてくれるということではないでしょうか。特に話という話はないのに、互いの生存を確かめ合うかのように、ほどよい気遣いを互いにし合いながら雑談をする、晩年の楽しみはこれに勝るものはなさそうです。伴侶のいない独り身であれば、このありがたさは、なおさらのことに違いありません。
 しかし、このありがたさは、晩年を迎えた老人にこそ特別なことであっても、若い人にまで言えることであるのかどうかはわかりません。まだ先に長い人生があると思えば、いまの生活を守り、あるいは立て直すことが先決で、話し相手のあるなしなどは、さほど重要なこととは思えないにちがいないと思えるからです。
 もちろん、若さとか老人臭さとかは、年齢だけで決まるものではなく、七十になっても、八十になっても、自分は若々しいと思い、はたから見てもそうとしか見えない人は沢山いますし、また逆に、年若い人でも、ものの見方や感じ方が驚くほどに老成していて、頭の下がる思いをする人も沢山います。
 どちらが良くて、そちらが悪いというのではありません。ただ私は、時折、その違いがどのあたりから来るものだろうかと、とても気になることがあるのです。そしてこんなふうに思うことがあります。その違いは、ひょっとすると、死というものをどれだけ身近なものとして感じられているかどうかにあるのではないのかと。死を意識することは、必ずや生きる上での意識にも影響せざるを得ないからです。
 まど・みちお(1909年〜2014年)という詩人をご存じでしょうか。「ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね/そうよ/かあさんも ながいのよ」というあの詩を書いた人と言えば、ああ、あの人、と誰もが頷かれるのではないでしょうか。
 平易で、優しく、素朴な言葉のなかに、人生の深い意味や真実、ときに鋭い批評精神までを忍び込ませることのできた詩人で、好きな詩人の一人ですが、その彼の詩集『いのちのうた――まど・みちお詩集』(ハルキ文庫)のなかに、こんな興味深い詩があります。「れんしゅう」と題した詩で、こんなふうに綴られています。

今日も死を見送っている
生まれては立ち去っていく今日の死を
自転公転を続けるこの地球上の
すべての生き物が 生まれたばかりの
今日の死を毎日見送りつづけている

なぜなのだろう
「今日」の「死」という
とりかえしのつかない大事がまるで
なんでもない「当たり前事」のように毎日
毎日くりかえされるのは つまりそれは
ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に
あわてふためかないようにとあの
やさしい天がそのれんしゅうをつづけて
くださっているのだと気づかぬバカは
まあこのよにはいないだろうということか

 まど・みちおが言うように、私たちの人生は、生まれては過ぎ去ってゆく日々の小さな死の連続から成り立っています。ところが誰も、日々が死の連続であるなどとは気づいてもいません。なぜなのでしょう。それは、おそらく私たちがいつも「今」を見つめることはせずに、「未来」ばかりを見つめているからではないでしょうか。
 「今」よりは「未来」のほうが大切だと信じていれば、小さな幸せは置きざりにしても気にならず、大きな幸せだけを求めるでしょう。大事のためなら、小事を犠牲にすることも厭うことなく、暗く悲しい出来事に出合っても、その意味を深く考えようとすることもなく、まるで自分に自己催眠でもかけたようにかなぐりすてて、明るく前向きな人生だけを追い求めることになるでしょう。
 年若さの特徴とは、「未来」だけを見つめて、「今」を見つめることを忘れている、ということではないでしょうか。
 生まれては死んでゆくのは、「日々」だけではありません。私たち自身が、刻一刻と小さな死を繰り返しています。
 鴨長明の有名な一節に、「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」(『方丈記)』出だしの言葉)というのがあります。目の前の河の流れを見て、人は、常に変わることのない同じ河の流れを考えるかもしれない。しかし、実は、同じ河の流れではないのです。一見した限りでは、同じ流れのように見えながら、今日の水はすでに昨日の水ではありません。昨日の、いや、一瞬前の河の水は、すでに流れ去って過去のものとなり、いまこの瞬間に流れている河の水は、全く新しい河の水です。
 ふつうこの一節は、この世の無常を語るものとして理解されていますが、実は、私たちの「生」と「時間」というものの有り様を物語る見事な比喩であったとも考えられるのです。
 なぜなら、ここで指摘されている河と水との関係は、私たち自身の意識(心)と肉体との関係にも当てはめることができるからです。私たちの意識(心)を包んでいる肉体は、無数の細胞でできていますが、その細胞は刻一刻と死んでゆきながら、それを補う新しい細胞が刻一刻と生みだされています。
 刻一刻と小さな死を繰り返しながら、新しい細胞に変わっている私たちの肉体は、河の流れと同じように、一瞬前の肉体と一瞬後の肉体とではすでに同じものとは言えないのではないでしょうか。厳密に言えば、一瞬前の私と一瞬後の私とでは、同じ私ではないのかもしれません。私が「私」であり得るのは、幸運にも記憶というものが生き続けていて、その記憶が、過去と現在の私をつなげていてくれるからではないでしょうか。
 これほどまでに、無数の小さな死と再生が繰り返されているというのに、私たちは、「今日」の「死」という/とりかえしのつかない大事」を、「まるで/なんでもない『当たり前事』」のように、やり過ごしています。
 こんなことを考えながら、私は今、自分が年老いたことに一抹の寂しさを感じながらも、反面、ほっと感謝もしています。自分の「死」を、てらうことなく、気負うことなく、ごくごく自然に、「身近にあるもの」と言うことができる今の年齢を。
 死が身近なものであるのなら、不確かな「未来」ではなく、「今」をこそ大切にしなくてはいけないのかもしれません。「今」をこそ真剣に生きなくてはいけないのかもしれません。
 この世にある友人たちが大切なものに思えるようになったのも、私が自分の死を身近に感じるようになったからに違いありません。間近な旅立ちを前にして、この命を出来る限り大切に生きてみたい、そんな思いの共同体を無意識のうちに感じ合っているからかもしれません。


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(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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