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哀しき青畳


 妻が亡くなってもう30余年。鮮やかだった記憶もいつの頃からかかすみ始めて、住んでいるこの家までが、当時とは別物のように思えるのが不思議なくらいだ。
 記憶のなかの家はもっと明るかった。それが今ではすっかり色あせて、空気までがよどんでいる感じだ。確かに、当時、まだ家には、二人の息子たちの余韻も残っていたし、新築してまだ15年にも満たない屋内には初々しささえ残っていた。妻の亡骸が病院から帰ってきて、階下の日本間に安置されたあの日ですら。
 あの日、久しぶりに帰ってきた妻は、安置されることになる日本間に入るなり、そこがあまりにすがすがしい青畳に替わっているのに気づいて驚き、それからすぐ気を取り直すと、ほっと安堵の吐息を漏らした、いや漏らしたものと、私は勝手に思い込んだ。けっして許してはもらえない罪深さに思い悩んでいた私だったから。
 これからお話しすることは、大切な家族を失うときに、しばしば訪れがちな心の葛藤についての小さな報告に過ぎませんが、そんな葛藤が確かにあったという意味では、死別心理の一例として、語るなにがしかの意味があるかもしれません。

 S字結腸ガンの疑いで第1回目の入院をする直前、妻は私にこう言ったのです。「退院したら、日本間の畳替えをしましょうね」と。
 「そうだね、そうしよう。」気安く請け合った私でしたが、それが後々、深い葛藤を引き起こす原因になろうとは、予想もしないことでした。
 妻の言葉は、しばらく家を留守にする主婦らしく、出がけにふと目にした日本間の畳が気になって、何気なく口にしただけのことだったのかもしれません。私もそう思っていました。
 しかし,日頃から注意深い人間であったら、その言葉になにがしかの意味を見出していたかもしれません。
 しばらく前から、妻は無性にお墓をほしがるようになっていました。「自分の入るところがはっきりしていないと、安心ができないの」と。私は半ばあきれ、同時に、そのあまりの用意周到さに、いつもの彼女を見る思いで、微笑ましくもありました。
 もちろん、私は反対しました。まだ50代に入ったばかりで、もうお墓の用意までするなんて、と。子供の頃、病弱の父が母に向かって話していた情景がふと頭に浮びました。「生前からお墓を買うと、どういうわけか早死にするそうだね。」父は母にそう話していました。
 しかし、妻の執着は尋常ではありませんでした。その後も、一人で墓探しに回っていたらしく、ある日、家に帰るなり、こう言ったのです。「お墓が見つかったから、一緒に見に来て欲しいの」と。
 これには驚きましたが、妻の真剣さに押されて、出かけてみることにしました。場所は、家から電車で2時間余もかかる高尾という場所でしたが、さて、妻が指し示した箇所を見ると、そこは、いかにも慎ましい一枡の区画でした。私は即座にそこに埋葬される妻を想像してみました。あまりにもわびしくて、悲しいほどにみすぼらしいものに思えました。もっと広くて、立派なものでなくてはいけない。とっさにそう思った私は、費用も、老後の不便さもわきまえずに、そこからかなり奥まった高台にある、倍ほどの広さの墓地をあっさりと買いこんでいました。
 考えてみれば、父の話は決して根拠のない話ではなかったのです。「生前に買う」から「早死にする」というのは結果論から言っただけで、正しくは、人は、自分の死を身近に感ずるようになると、墓探しの必要をなんとはなしに感じないではいられなくなる、ということなのでしょう。その意味では、妻は明らかに死を意識していたのですが、そんなことには思いもおよばぬ私でした。
 妻の死を突如として、しかも激烈に意識するようになるのは、手術後数日して、主治医から密かに呼び出されたときのことでした。「手術は成功でした」と主治医言い、それからすぐ続けて、謎のようなことを付け加えたのです。「しかし、残念なことに、ガンは腹膜に転移していました。」医学に不明な私に、その意味のわかろうはずもありません。「でも、治療はできるということですね。」私は即座にそう訊ねました。「いえ、再発するということです。」「それは、いつのことですか。」「3ヶ月か半年後です。」「でも、それは直せるということですね。」
 再三のやりとりの後で、やっと私に理解できたのは、腹膜に転移した以上は、手の施しようはないのだということ、3ヶ月あるいは半年後に再発するというその「再発」は、妻の死を意味しているということでした。
 手術から10日ほどした頃、妻に誘われるままに病院の中庭に出たときのことです。快い陽光を浴びた中庭の椅子に座わると、妻は何気ない様子で、手術の結果を聞いてきました。私は動揺しました。「うん、手術は成功だったよ」とは答えたものの、その後がうまく続きません。すると妻は重ねて訊ねてきました。「なんだか、冴えない返事ね。まさか、あと4年とか5年とか言うのではないでしょう」と。あと4年とか5年。そんな長いスパンで余命を考えている妻に、どうして「あと3ヶ月か半年」などと言えるでしょう。妻の生死を前にして、なお隠し立てしようとする自分が悪魔のようにも思えて、このときほど生きている人間の罪深さを痛感したことはありませんでした。
 手術後2ヶ月半ほどした平成元年12月10日、妻は見違えるように元気を取り戻して退院すると、すぐさま仕事に復帰して、精力的な活動を開始しました。この月の22日まで、冬休みに入る前の最後の授業が残っていたのです。出校するのは週に4日、そのうちの2日は、早朝に出て、帰宅は夜の10時というハードなものでした。畳替えの話は、もうすっかり立ち消えていました。それよりも遙かに重大な、生存の闘いが最大の関心事となったからです。
 その後の展開は主治医の予想通りでした。それから7ヶ月後の平成2年7月11日に妻は再入院し、さらにその1ヶ月後には終焉の場所となる最後の病院に転院します。病を重くした病人には、もはや病院のなかにさえ居場所はないのだという孤独感に追い立てられ、すがるようにして求めた転院でしたが、期待通りにはいきませんでした。
 再入院から終焉までの約2ヶ月間は、妻にとっては、ただひたすら崩壊し続ける失意の日々であったに違いありません。私にとっても、それは次々と明らかになる妻の新たな崩壊の兆しを見ては恐れおののき、ただおろおろと祈るばかりの日々でした。
 再入院してからは、まるで坂でも転げ落ちるような速さで病状を悪化させていきました。間もなく腸の動きもままならなくなりました。もう死も覚悟しなくてはいけないのかもしれない、と、そう思ったときのことでした。「退院したら、客間の畳替えをしましょうね」という妻の言葉が急に思い浮んできました。
 すると、お客を迎え入れるとき、きまって、玄関に打ち水している妻の姿が浮かんできました。妻は週に二回、家の掃除をお手伝いさんに御願いしていましたが、その前日になると、判で押したように、家中の掃除をし、片付け物をし始める妻の姿も浮かんできました。
 きっと妻は、客人をきれいな部屋に招き入れたいにちがいないのだ、私はそう考えました。それなら、万が一のことを考えて、妻に代わって、前もって畳替えをしておくのが、あとに残る者としての務めではないのかとも考えられました。しかし、妻に断りもなく実行してしまうのは、なんとしても妻への裏切り行為のように思えて、とても出来ることではありませんでした。
 新たな病院に転院する8月10日は、前夜来の台風の余波を受けて、風の強い雨模様の日でした。まるで私たちの気持ちをそっくり映し出しているような風雨のなかを、最後の希望を託して、私たちは寝台車に乗り込みました。
 妻は珍しく個室を選ぶことにしました。質素な生活に努めてきた彼女にとって、それが生涯で唯一の贅沢だったのではないかと思うと、今さらながら心が痛みます。
 新しい病院に移ってからも、好転の兆しはありませんでした。病状は悪化するばかりです。間もなく食事も思うように出来なくなります。静かなクラシック音楽ですら、彼女の耳にはもはや苦痛としか感じられないようでした。いよいよ最後のときが来たのかもしれない、私はそう覚悟せざるを得ませんでした。焦りのようなものが私のなかに騒ぎ始めました。手遅れになってはいけない、なんとしても妻の了解をとらなくては、私はそう思いました。迷いに迷った末、私はこう切り出しました。「畳替えのことだけど、とりあえず私がやっておこうと思うのだけれど、どうだろう?」
 妻は弱々しい声で、即座にこんなふうに答えたのです。「私が、家に、帰ったら、きっと、しますから、もうすこし、待って、いて。」それは懇願するような、切望するような、いかにも切なそうな声でした。
 私はとてつもない過ちを犯していたことに気づき始めました。妻にとって、「畳替え」は、単なる畳替えではなかったのではないか。「家に帰ったら、私がする」という言葉のなかには、「私が病気から回復したら」という意味合いが込められ、「私がするから」という言葉のなかには、必ずや「生還するから」という暗黙の意思が、願掛けのように、祈りのように、込められているのではないか、と思いあったったのです。
 もしそうであったのなら、もしそれが祈りであり、願掛けであったのなら、畳替えをするのは彼女本人でなくてはならないはずで、彼女以外の人間が先走って手を加えたら、それは、妻の生還を妨害する不吉な行為以外の何ものでもなかったのではないのかと。
 にもかかわらず、私は妻との約束を破りました。迫り来る死の予兆を前に、私はなんとしても畳替えをせずにはいられなかったのです。妻の名誉を守り、客人を迎えるにあたっての妻の心遣いを代行したいという一心のあまりに。それは偽りのない気持ちで、私は確かにそう考えたのです。
 しかし、私の気持ちは複雑でした。妻との約束を破ったばかりか、ひょっとすると、私は妻の生還の途までを閉ざしてしまったのかもしれないのです。私は言い知れぬ罪の意識を感じずにはいられませんでした。
 しかし、それだけではありませんでした。私にはさらに辛い反省がありました。果たして私の行為は、本当に必要な行為だったのだろうかという。結局のところ、それは単に、虚しい体面にこだわっただけの行為であって、妻の心に深く寄り添うことを忘れていた行為ではなかったろうかと。
 平成2年9月8日の午後、妻は2ヶ月ぶりに帰宅して、すがすがしい青畳の敷き詰められた日本間に安置されました。その青畳を見て、妻がどのように感じたのか、本当のところはわかりません。しかし、私にとって、それが悲しき青畳であったことだけは確かでした。


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(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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