←日本グリーフ・ケア・センター トップページに戻る

「心を再構成する」ということ       
──「語り」の種々相、心を深く見つめるために


 死別直後の辛い混乱状態にあるとき、人は自分の苦痛や不安を語らすにはいられません。
 目前の目的意識や方向意識が突然消え失せることから生じる不安と混乱から抜け出すために、誰彼かまわず自分の心境を語らすにはいられないのです。
 最初のうちは、何を訴えようとしているのか、自分でも判然とはしていません。しかし幾度か同じ行為を繰り返えしているすうちに、使う言葉や表現の仕方にも変化が現れ、話す内容も的が絞られてくるようになります。繰り返し話しているうちに、感情が少しずつ整理され、記憶の内容も整理されて、自分の気持ちを正確に伝える言葉を見つけ始めたのです。
 はたから見れば同じ不安の繰り返しのように見えますが、本人の側からすれば、それは自分自身に自問しては自答する行為、つまり「自分自身との対話」の行為であり、「記憶」の整理でもあったのです。
 記憶が重く複雑であればあるほど、記憶の整理には時間がかかります。人は、重い記憶からは,つい逃れようとするからです。幾度か接触を試みた後に、やっとある程度の接触が許され、記憶の整理が始まります。悲嘆から立ち直るためには、このように、ある程度の苦痛を覚悟で、悲しの本体と向き合う必要があり、この作業を繰り返すことで、心は少しずつ立ち直り、「心の再構成」が行われていきます。
 「心の再構成」という言葉に私が最初に出会ったは、フランシス・マクナブの著書、『喪失の悲しみを超えて』(福原他訳、川島書店、1994年)という書物でした。マグナブは、心のなかの重い記憶を移動させたり、別のものに置き換えたりすることで、「心の再構成」が可能ではないかと考えました。
 その考え方を、マグナブは、部屋のなかに置かれた家具の配置替えという比喩を使って、説明していました。部屋の入口近くに大きな家具が置かれていたら、その部屋はなんとも使いにくいものになります。その家具を部屋の片隅のほうに移し直したり、手ごろな家具で置き換えたりすれば、部屋はずっと使いやすくなるはずです。ここで言う「部屋」と「心」の比喩であり、「大きな家具」とは、その心を縛り付けている「重い記憶」のことでした。
 心理療法家でもある彼は、それを具体化するカウンセリングの方法として、以下のように記述していました。やや長くなりますが、この部分は心理療法の本質的な内容を含んでいますので、煩雑を厭わず引用した後、私なりの要約を加えてみたいと思います。引用部の[ ]内の言葉は、文意をわかりやすくするために、私が補ったものです。  

 人々の内的な心の再構成を援助するときに、私が人びとに求めるのは、抵抗せずに力を抜き、静かな瞑想的な恍惚状態に徐々に入っていくことである。彼らは一方では、私が使う一つひとつの言葉に注意を集中するだろう。しかしもう一方で、私の使う単語、言い回し、イメージは、彼らの理性的な意識の下に滑り落ちて、潜在する意識レベルに達するだろう。悲しみにくれる人が自分の悲しみに関して使う言葉を注意深く聴いた後で、今度は私が、彼らが自分のつらい喪失とその記憶を描写し、それに意味を与えるために使った単語、言い回し、イメージを使い始める。私は言葉の速度を落とし、声の調子を変える。そしていろいろのイメージやテーマを使いながら、それを巧みに、自由に処理する方法を生みだしはじめる。その人の言葉に歩調を合わせ、つらい思い出に近づきながら、私はその痛みの感じ方、表わし方、経験の仕方を変える可能性を探る。心の内にあるもの、それが置かれている状況、そしてその状況に与えられた意味を配置しなおす方法を探る。
 [クライアントの]意識の一部分に話しかけながら、私は[クライアントの言葉からの]類推による[クライアントの記憶の]転換をおこなう一方、[クライアントの]別の潜在する意識のなかにあるメッセージとイメージを強める。今まで、[クライアントの]記憶とその意味に順応性がなかったのは、その一部が歪曲されたり、削除されたりしたためであった。それにたいする手段として、私はその人びとの不安や痛みを表わす言葉をとりだし、それを弛緩と力を表わすシンボルとイメージのすぐそばにおく。自分の記憶にしがみついているのを感じている人びとの前に、一羽の鳥が木から飛び去るイメージをおく。鳥は飛びつづける。木はたいせつな務めを果たした後、鳥を飛び立させ、後悔も悲しみもない。一人の人間が、ビルの残骸のあいだをさまよい歩いているとしよう。かつては活動の場であったが、今は荒廃して冷たい風が吹いているばかり。もし耳を傾ければ、風が廃墟に運んでくるメッセージが聞こえてくるかもしれない。風にとっては廃墟も目につきやすいもので、いま、メッセージとなって吹き抜ける。風は悲しみにくれる人びとへのメッセージをもってきたのかもしれない――「コンクリートのあいだから生える草を見てごらん。」
 私たちは質問することによって、彼らが自分の内的な世界を配置しなおすのを促す。私たちは、[クライアントの]記憶のまわりを歩き、それに別の意味を与え、それに向かってメッセージを投げかけることができる。そのメッセージが記憶のインパクトを変化させ、その人の在り方と、その人と世界とのかかわり方のなかでの記憶の位置をなおすことができる。(78〜80頁)

 マグナブの説明の仕方はやや舌足らずで、明快さに欠けるため、言葉を補いながら彼の方法を要約すると、次のようになるでしょう。
1.カウンセラーは、クライアントの悲しみを聞く際に、クライアントがその悲しみをどのような言葉・言い回し・イメージを用いて語っているのか、それに注意深く耳を傾け、その表現法をしっかりと記憶しておく。
2.次は、カウンセラーがクライアントに向かって質問したり、コメントしたりする番になりますが、その際、カウンセラーは、クライアントが使っていた同じ言葉、同じ言い回し、同じイメージを意識的に使用して、質問をし、コメントを加えます。
3.その際、大事なことは、同じ言葉、同じ言い回しを単にオウム返しにするのではなく、クライアントにとって必要な自覚や変化を促す手立てとして、それらの言葉にカウンセラー側からの創意工夫に満ちたイメージやメッセージを上乗せして送り返すことになります。著者の言葉に従えば、それは、クライアントの「言葉に歩調を合わせ、[そうすることで、クライアントの]つらい思い出に近づきながら、その痛みの感じ方、表わし方、経験の仕方を変える可能性を探る」(79頁)ためです。
4.では、なぜクライアントの言葉に歩調を合わせてクライアントの痛みに近づく必要があるのかと言えば、それは、クライアントの「心の内にあるもの、それが置かれている状況、そしてその状況に与えられた意味を配置しなおす方法を探る」ためなのです。
 ここでマグナムが言うクライアントの「心の内にあるもの」とは、言うまでもなく、クライアントの意識を縛っている重い記憶のことですが、その記憶は、当然のことながら、さまざま状況のなかで起こるべくして起こり、形成され、刻み込まれたもので、それらの記憶には、その状況のなかでクライアントが貼り付けた意味付け、理由付けが、深く、重く付着しています。
 この深く付着している理由と意味づけこそが、実は、クライアントがその状況のなかでその記憶に色付けせざるを得なかった「思い込み」であり、「自己弁護」であり、「偏見」であり、「こだわり」であり、「偏り」なのです。その偏りがあったが故に、「今まで、記憶とその意味に順応性」がなく、固着していた理由だったのです。マグナブの方法は、固着し、順応性を失っていた記憶に、新しいイメージとシンボルとを付け加えることで、「弛緩と力」を取り戻させようとするわけです。
5.さて、ここで問題になるのは、ではカウンセラーは、どのような有益で有効なイメージやメッセージやシンボルを、提供できるのかということになるのですが、肝心かなめのこの部分については、明快明瞭な解説はほどこされていません。マクナブは、わずかにこんな例を挙げているにすぎません。
 「一羽の鳥が木から飛び去るイメージをおく。・・・木はたいせつな務めを果たした後、鳥を飛び立たせ、後悔も悲しみもない」。
 あるいは「一人の人間が、ビルの残骸のあいだをさまよい歩いている・・・・今は荒廃して冷たい風が吹いているばかりだが、もし耳を傾ければ、風が廃墟に運んでくるメッセージが聞こえてくるかもしれない。――『コンクリートの隙間からさえ萌え出でている草の命を見てごらんなさい」と(79頁)。
 
 刺激的で創造的なコメントを思いつくことの難しさは十分に考慮したうえでも、なお、ここに提示されたイメージの例は、あまりにも詩的にすぎ、暗示的にすぎて、指針としての具体性に欠けるのではないでしょうか。すべてのカウンセラーに詩的想像力が恵まれてわけでもありませんし、カウンセラー一人の能力にも自ずと限界があります。
 では、これを補うものがあるとすれば、何があるのでしょうか。
 引用文冒頭の著者の言葉「私が人びとに求めるのは、抵抗せずに力を抜き、静かな瞑想的な恍惚状態に徐々に入っていくことである」という言葉が暗示しているように、カウンセリングの最終的な目的は、カウンセリングを通して、クライアントの心のなかに「気づき」という化学変化を引き起こし、その「気づき」によって、クライアントの「意識そのものの質的変容」を引き出すことであるはずです。
 にもかかわらず、マグナブの記述からその意図が十分に伝わらないのは、「心の再構成」を唱える彼が、その再構成を主に「記憶の移動」「記憶の入れ替え」といった、「平面的」「空間的」な意味合いにとどまっているからかではないかと思われます。
 本当の意味での「質的変化」は、ありふれた方法ではありますが、自問自答による「自分自身との対話」、「記憶との対話」、言い換えれば、時間をかけた「内省」による以外にはないのではないでしょうか。質的変質を伴う「心の再構成」は、記憶の入れ替えによって可能になるのではなく、繰り返される「内省」の末に,あるとき突然閃く「気づき」によって可能になるもので、その本質は、英語で言う「コンヴァージョン(conversion) 」、つまり、心のあり様全体を質的に一変させる「回心」にも似たものであるように思われます。
 マグナムの曖昧性は、「悲しみを語る」ことに対する彼の軽視と無関係ではなかったのです。マグナムは、悲嘆を「語る」ことの有効性を徹底して否定するかのように、こんなふうに言うのです。

 人びとが悲しみに暮れているとき、記憶の中身をくり返し話してみても、その人のつらさは思ったほど軽減されるものではないようだ。このことは、手を差しのべる友人、親類、カウンセラーにはしだいにわかってくる。私も気づいたことだが、悲しんでいる人びとは、過去に実際に起こったことは重要なものであり、私がそれについて聞きたがっているにちがいないと思っている場合がとても多いのである。・・・そのことをくり返し話すことは、多くの場合その人の憤りや、やり切れなさを映しだすことになり、心的外傷にたいする自分の反応を、抑制のきいた静かな状態にもっていこうとする建設的な作業であることは少ない。(73頁)

 この発言には大きな誤解があるようです。参加者たちは悲嘆を語りたくて語っているのではありません。語らずにはいられないから、語るのです。また、悲しみを語ることが一時的に悲嘆状態のぶり返しをもたらすのも事実ですが、そのぶり返しは、「語る」ことで悲しみの事実を改めて直視することから生じています。たとえ一時的には悲しみのぶり返しになっても、立ち直るためには、悲しみの事実としっかり向き合うことが必要なのです。悲しみを回避している限りは、直視すること回避している限りは、立ち直りの訪れることはありません。
 すべては「語る」ことから始まると考えるべきなのです。なぜなら、初期の悲嘆状態にある場合ですら、「語る」ことは「整理」することであり、「自問する」ことであり、「記憶と対話する」ことであったからです。著者は気づいていないのでしょうか。カウンセリングをするという行為自体が、実は、クライアントにとっては、自己と「語る」ことであり、「自問する」ことであり、「記憶と対話する」ことにほかならないということを。
 忘れてならないのは、グループ・ミーティングにしろ、個別のカウンセリングにしろ、それが永遠に継続するものではないということです。期限が来れば、クライアントはカウンセリングの場を離れて、再び一人に戻り、自分一人と向き合わなくてはなりません。
 では、それで「語る」ことは終わるのかというと、そうではではありません。「語る」行為は形を変えて、「自問自答する」行為として残り、むしろここからが、本格的に「語る」行為の始まりとも言えるのです。一人になったクライアントは、今度は自分自身に向かって「語る」ことを始めます。5年、10年という時間をかけて、クライアントは幾度となく「自問自答」し、「記憶との対話」を繰り返しながら、「自省」することを続けます。
 「自分自身との和解」は、徹底して自分自身に「語る」ことを続けた末に、ある日、あの『ニーバーの祈り』に行き着くことで完成するのかもしれません。「神よ、変えることの出来ない事柄については、それをそのまま受け入れる平静さを、/変えることの出来る事柄については、それを変える勇気を、/そして、この二つの違いを見定める叡智を、/私にお与えください」というあの祈りに。
 


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

Copyright (C) 2021 日本グリーフ・ケア・センター, All rights reserved.