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心が深い縛りから抜け出せないとき      
 ――いちど心をまっさらにしてみてはいかがですか?

 自分ではもうすっかり立ち直れていると思っているのに、意味もなく憂鬱になったり、判然としない自責の念に苦しんだり、なにかすっきりしない「違和感」のようなものを感じたりすることはありませんか。それはひょっとすると、心のどこかにまだ未解決のままに残されているわだかまりがあるからかもしれません。
 人には誰にも、「こだわり」や「自己防衛」といった自分では意識しない心の構えがどこかにあって、本来の自分とは言えない、「構えとしての自分」、「真実でない自分」が潜みがちです。それが無意識のうちに心の縛りを引き起こしているのですが、そんな縛りから解放されて、自然なままの、本来の自分をもういちど取り戻すためには、心の構えそのものをいちどすっかり解除して、問題となるものを、とらわれのない心の状態で改めて見詰め直してみることが必要かもしれません。私はこれを、「自分と和解する」作業と呼んでいます。
 死別後の悩みや苦しみの多くは、心に深く刻み込まれている「記憶」に起因しています。死別という体験には、何かしらの罪意識や深い後悔の念を引き起こさずにはおかないものがあって、それが記憶として残ることになります。その記憶も、軽いものから重いものまでさまざまですが、記憶が重ければ重いほど、心に刻み込まれる傷も深くなります。
 そんな記憶のなかでも、特に心を長く縛るのが、自責の念と自己正当化の衝動が同等の力でせめぎ合う、反対感情併存型の記憶の場合ではないかと考えられます。この状態は、生前の夫婦関係が愛情と憎しみ、怒りといった、同時併存する反対感情に支配されていた夫婦の場合や自死の場合などに多く見られがちです。自死の場合には、死に至るまでの経過のなかで、しばしば伴侶の性格に大きな変化が現れがちであるため、理由もわからぬままにいつの間にか夫婦間に修復不可能なまでの亀裂が入ったり、特に、亡くなった伴侶の側の家族や親族からの無言の批難や、社会からの冷たい目にさらされたり、あるいはそれを意識したりすることから、二律背反的な悲嘆感情はますます複雑化することになりがちです。心理学では、こうした心理状態のことを「ダブル・バインド」〈二重拘束〉の状態と呼んでいます。とても苦しい状態です。
 このような状態にある場合には、「あるがままの」素直な自分になることなどはとても考えられることではありません。自分の過誤を容認したいという無意識の衝動がある一方で、それを容認したら、今の自分を失うかもしれないという恐怖感もあるため、「あるがままでない」自分を無意識のうちに介在させてしまうことになります。当人は、当然そんな事情があるとは知りませんから、理由のない「無力感」や「違和感」といった、「気分」としてそれを感じるとることになります。
 このような場合、それを解消するために考え得る最も有効な方法としては、いちど善悪の判断を一切振り払い、心をまっさらにして、原因となっているそもそもの記憶を判断停止の状態にしたままその大本までたどり、意識化してみること、つまり、見極めてみることをお勧めしたいと思います。
 記憶というものは、普通、単独で成立していることは少なく、一つの記憶には幾つもの記憶が繋がり合っています。「意識化」するということは、さまざまな場面で形成され、繋がり合あっているそれらの記憶を、出来る限り全体的に思い返しては、洗い直しをしてみる作業を言います。言い換えれば、判断停止のままに、その記憶たちと対話をしてみるということです。
 数多い記憶を一回の作業でたどり直すというのはとうてい不可能なことですから、この作業はふつう時間のかかる作業になります。数カ月、あるいは数年、ときには一〇年、二〇年という年月を要することも考えられます。なぜなら、この作業が、ほぼ過不足なく終了するためには、心の成長を伴うこともまた必要となるからです。
 この作業は、普通「自問する」という言葉で表現されている作業と同じものですが、ここで言う「自問」、つまり「記憶との対話」は、単に記憶を再現することで終わるものではありません。記憶というものには、自分なりの理解や解釈、理由付けが付着しています。自分勝手な思い込みや、偏見、こだわり、性急な早わかりや決めつけが付着しています。この作業は、善悪の判断をできる限る中断することで、記憶自体に付着している頑なさを一時棚上げして、記憶そのものを、囚われのない目で見つめ直してみることを意味しています。この作業は当初は容易でないように思えるかもしれませんが、時間をかけてこれを繰り返すことで、習慣化し、固定化されて、容易になっていきます。
 これが習慣化すると、それまでは自己の正当性ばかりを主張していたように見えていた記憶たちが、次第に片意地さを解いて、そこに必ずしも正当とばかりは言えない、自分本位の決めつけやこだわりの色づけがあったことに気づくことになります。厳しい批判の対象となっていた相手の行為や考え方が、実は、当人の不幸な病気に原因があったことに気づいたり、結婚以前の生活環境の影響によるものであることなどが見えてきて、こちらがもう少し理解と寛容さを備えていたら、理解することも、それに相応しく対応することも、受け入れることも、より良い方向に変えていくことさえ、可能であったことに気づくかもしれません。
 また逆に、決して許されるはずもないと思えていた自責の念についても、新たな救いの視点がひらけてきます。あるとき、ある場面で、まるで耳元で悪魔のささやきを聞くように、ふと相手の死を願うような瞬間があっとしても、その罪深い願いも、その言葉も、実は自分自身の本心から出ていたものではなく、一瞬の衝動や、極度の疲労や、罪のない気迷いによるものであったことに気づくかもしれません。
 心をまっさらにするということは、こわばった感情を解きほぐして、自然な感情の流れを取り戻すための道筋を切り開くということにほかなりません。
 自然な感情を取り戻したあとの自分の目には、自分自身の過ちもまた見えてきます。たとえそれが疲労の結果によるものであったにせよ、また、一瞬の気迷いや感情の妄動によるものであったにせよ、それらが自然な感情の流れから逸脱した、頑な心の膠着であったことには相違はなく、それならば、過ちは過ちとして素直に認め、許しを請い、悔悟の涙にもくれることも可能にしてくれるのではないでしょうか。
 悔梧の涙は、心のわだかまりを、解かしてくれます。浄化された心は、「自分との和解」を可能にし、新しい私自身を準備してくれます。
 必要なことは、思い切って自分の心を見つめてみることではないでしょうか。このような作業を繰り返すことで、私たちは少しずつ解放され、成長して行くのだと思います。


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(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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