←日本グリーフ・ケア・センター トップページに戻る

「死の受容」と「伴侶の死の意味を考える」ということ
       ── 新しい「自分」の出発のために


 私たちの「支える会」では、月2回、4か月間、全8回のセッションのなかで、それぞれの死の状況を語ることから始まり、怒りや罪意識や後悔の思い、立ち直りを妨害するさまざまな心理的要因などについて語り合った後、7回目では「これまでの私、これからの私」について考え、第八回目の最終回で、締めくくりとして、「死の受容と伴侶の死の意味」について語り合うことにしています。
 しかし、死別後もまだ間のない参加者にとっては、4か月という時間はいかにも短く、「死の受容」や、ましてや「伴侶の死の意味」について考えるのは、時間的に言って、とても無理なことではないかと思われます。「死の受容」も、「伴侶の死の意味」も、悲嘆と向き合うそれなりの時間が許されて、初めて、実感を伴って理解できる事柄であるように思われるからです。立ち直りへの道を歩み始めたばかりのこの時点では、実感は言うまでもなく、その内容についてさえ、いまだ判然とはしない状態であるかもしれません。個人差はありますが、立ち直りまでに要する時間は、平均して3年と考えるのが一般的であるからです。
 「死の受容」とはどういうことを言うのか、「伴侶の死の意味を考える」とはどんな意味のことを言っているのか、理解を深めるために、ここで改めて補足的に説明してみたいと思います。
 「死の受容」とは、言うまでもなく、伴侶の死を事実として受け入れることを言っています。大切な伴侶はもうこの現実には生きてはいないのだという事実を、しっかりと心で受けとめることを言います。
 このように言うと、「伴侶は現にもう生きてはいないのですから、その事実は事実として受け入れざるを得ないではないですか」とおっしゃるかもしれません。しかし、それは必ずしも「死を受容している」状態とは限らないのです。死を頭で理解して受け入れるということと、心で理解して(納得して)受け入れるということとの間には、大きな違いがあるからです。
 受容には、「頭」で、つまり「知性」で理解しただけの受け入れ方と、「感情のレベル」で、「心のレベル」で理解して受け入れるという、二通りの受け入れ方があるのです。立ち直りに大切なのは、後者のほう、つまり、心のレベルで受け入れるということが大切で、それができて初めて、立ち直る準備ができたことになります。
 病院で死を迎えるとします。病床のわきに置かれたモニター上の線が水平になったときが、すなわち死を意味していることは頭では理解しているのですが、しかし、その瞬間はただ茫然自失するだけで、悲しみの感情は出できません。悲しみの涙が出るのは、それから時間がたって、例えば霊安室に降りて、死者と改めて対面するときです。死を知的に理解することは容易であっても、それを感情で、心で、理解するのは容易ではないのです。心のレベルで行われる理解は、知的な理解よりも常に遅れてやってくるのが普通です。
 この二つの受容の在り方は、その後の立ち直りの過程においても幾度となく繰り返されて、少し立ち直ってはまた悲しみをぶり返すということを幾度となく繰り返えした末に、「死の受容」という状態が出来上がってきます。
 では、その「受容」はいつでき上るのかということですが、残念ながら、その時期を正確に確定するのは困難なことです。悲しみの度合いが次第に薄れてきて、悲しみを忘れている時間のほうがずっと多くなってきたように感じられてきたそんなある日のこと、ふと、「どうやら自分は死を受容できたのかもしれない」と気づくというのが、正しい表現の仕方かもしれません。「死の受容」という心の状態は、ある体験をすれば、それでいちどきに出来上がるというようなものではなく、幾度となく悲嘆を繰り返した末に、あるとき「もうこれでいいかな」という思いが無意識のうちに自然と湧き起こったとき、それが受容したときなのです。
 「諦らめる」という言葉は「明らめる」「明らかにする」という言葉と同義語であると言われますが、心のなかで、伴侶の死をはっきりと「明らかにする」ことが出来たとき、そのときが受容のときだったと言うことができるのでしょう。
 さて、「死の受容」が悲嘆から立ち直るために必要な作業であるとすれば、「伴侶の死の意味を知る」という作業は、これまでは気づきもしなかった「自分」を発見して、価値ある新しい自分を作りだしていくための大切な作業であるということができるでしょう。
 「伴侶の死の意味について気づく」と言うと、なにか難しいことのように聞こえるかもしれませんが、決して難しいことを言っているのではありません。それは、言い換えれば、「自分についてもっと知る」ということと同じなのです。
 「伴侶の死」という事実は、生涯をかけてその意味を問い続けることになる「意味の塊」のようなものだと言えるかもしれません。その後の人生のさまざまな時点で、また局面で、伴侶の死は、その意味を自分に問いかけてきます。伴侶とは、伴侶の死とは、自分にとって一体何だったのだろうか、自分はその死に対して正しい対応をしてきただろうか、自分はその死に見合う相応しい生き方をしてきただろうか、またしているだろうかなど、人生の節目節目で、伴侶の死をふと思い起こす度ごとに、自分の生き方を反省し、軌道を修正しては、より確かな自分自身を選び取っていきます。その意味で、伴侶の死は、真実の自分を映しだしてくれる「鏡」のようなものと言えかもしれません。
 立ち直りに向けて今やっと歩み出したばかりの方々にとっては、「伴侶の死の意味」は、まだ雲をつかむにようにつかみどころのないものかもしれません。しかし、あなたが、「夫がいなくなって、はじめて夫の存在の大きさに気づいた」ように感じるとき、あるいは「これまで、夫から『愛しているよ』という言葉を聞いたことがなかったな・・・」と思わず呟くようなとき、あるいはまた「自分はとうとう、生前の妻に本当の意味でやさしくすることもなく終わってしまった」と後悔するとき、そのとき、私たちはすでに伴侶の死の意味を自分に問いかけることを始めているのではないでしょうか。伴侶の死の意味を問いかける行為は、最初はこのようにして始まるからです。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

Copyright (C) 2021 日本グリーフ・ケア・センター, All rights reserved.