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「自然である」ことの大切さ         
 ――死別後の人生に深い不安を感じられている方々に


本エッセイは、会の機関誌「支える会通信」(2021年1月20日発行)に巻頭言として掲載されたものです。


 死別に直面した直後の頃は、誰もが深い不安と恐れの感情に襲われるのが普通です。これから先、この自分はどうなるのだろう、この孤独はいつまで続くのだろう、自分はこの孤独に果たして耐えることができるだろうか、いつかこの孤独に自分は押しつぶされてしまうのではないのだろうかと。
 当初は私も同じように感じていました。しかし、気がつけば、妻と死別して、すでに30年余の歳月が過ぎていました。
 30年という歳月は、死別という体験をそれなり理解するには、十分な時間と言ってもよいのではないでしょうか。
 この間、私なりのさまざまな苦悩もあり、悲しみもありましたが、同時に、多くの素晴らしい知人や友人たちとの交わりに恵まれて、人生の喜びも楽しみも経験することができました。
 この長い時間をくぐり抜けることで、私は自分の死別体験について、ある程度の確信をもって伝えられる何かしらがあるような、そんな気がしています。是非ともお伝えしたいその一つは、「時間」というものの豊かな優しさについてでした。
 これまで私は、「時間」が、「自然」の一部でもあるなどとは、考えてもみませんでした。これまで、時間とは、存在するものすべてを絶え間なく破壊し続け、葬り去る、冷酷で反自然的な破壊者とばかり、決めつけてきました。形あるものは必ず崩れ、この世に生を受けた命は、ただ一つの例外もなく、「生老病死」の過程を経て、いずれ消え去らざるを得ません。この意味で「時間」は、永遠の命をはぐくみ続ける「自然」とは対極的な、無慈悲で非生命的な存在とばかり考えてきました。
 ところが、そうとばかりは言えないことに気づいたのです。自分の死別体験を通して、時間もまた、自然の一部として、自然と同じように命を養い、命を癒す、優しい命の癒し手であることに気づいたのです。
 あれほどまでに恐れと不安に満ちていた死別体験であったのに、訪れては消え、消えては訪れる悲しみの過程を繰り返しながら、生きるために必要な最小限の務めを果たし、ときに孤独であることに慰めを見出し、訪れてくれるさまざまな人生の喜び、楽しみを味わい楽しんでいるうちに、辛いはずだった人生がいつとはなしに打ち過ぎていて、5年がたち、10年が過ぎ、さらにまた10年が過ぎて、それと歩調を合わせるように、自分自身の精神と肉体もまた、死別後の孤独と悲しみを生き抜くのに相応しく、ほど良いほどに調整されていたのに気づいたのです。
 「日にち薬」とはよく言ったものですが、この呼び名は、崩壊の担い手であるとばかり思われていた時間が、それとは逆に、崩壊を押しとどめ、命を養い育てる、癒し手としての自然の一部でもあったという事実を、巧みに説明していた言葉でもあったことに気づくのです。
 死別後の人生は、渓流を下る筏の川下りにも例えることができるかもしれません。筏は、ときに岩肌も荒々しい激流のなかを激しく上下しながら下ることもありますが、筏が辿るのは激流ばかりではありません。川幅の広い流れに快く乗る時間もあれば、激流にもまれながらも、そのあい間あい間には、遠方の山並みの美しさに見とれたり、ときには、岸辺の花々の壮観に目を見張り、川岸にひっそりと咲く可憐な草花の佇まいに息を呑んで、その残像を心行くまで楽しむこともあるでしょう。
 川下りのための波乱に満ちた渓流は、死別後の人生とも、人生そのものとも、さらには人間の運命そのものとも解することができるでしょう。しかし、もっと大切なことは、その川が、時間とともに推移していく自然そのものの譬えであり、その流れに浮かぶ筏とは、たとえときに激しく逆巻く人生の激流に乗ろうとも、いずれは穏やかな顔を見せるに違いない「自然」の優しさ、「命の力」を信じて、しばらくのあいだ恐れることなくその流れに身を委ねる、自然への信頼」の譬えでもあるということでしょう。
 死別後の悲嘆は、抵抗することによっては癒されることはありません。悲しむということはごく自然な行為であり、悲しむことは、自然の流れに沿うことなのです。究極的な自然の優しさを信じて、しばらくは悲しみに身を任せることも大切なのです。自然にならうということは、立ち直るための作業(いわゆる「悲嘆の作業」)の大切な仕事の一部なのです。悲しみに抵抗し、逆らうことは、悲しみを頑なにし、ときに複雑化さえしてしまいます。
 死別した直後は、恐れることなく悲しむ自分を素直に許し、認めてください。しかしこの心得は、死別直後の時期だけのものではなく、死別後の長い人生を通して一貫する、大切な心得でもあるのです。
 悲しみを素直に見つめ,認めるということは、「生きた感情」を持ち続けるということにほかなりません。生きた感情を持ち続ける限り、そこには必ず人生の豊かさが開けてきます。時間とは、無色透明な自然の一部ですが、それが無色透明であるということは、心の持ちよう次第で、そこに無限の豊かさを色づけ、埋め込むことできるということにほかならないからです。


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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