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内なる『知恵ある小人』を信じてみませんか? 
 ――迷いと疑いの中からも真実の自分が育っています

 私たちの『支える会』最終回の折りのことでした。参加者のお一人であるAさんが、こんなふうにつぶやかれたのです。「夫は長いこと重い病を患いながら、私や子どもたちの将来を考えて、無理に無理を重ねて最後まで働き続けてくれました。私はそのことに心から感謝しているのです。それなのに、なぜか自分が、夫の死への悲しみをどこかでごまかしているような、夫への感謝の思いすら、どこかで曖昧にごまかしているような気がしてなりません」と。
 最終回のテーマは『死の受容と死の意味について』でしたが、伴侶を亡くされてまだ日の浅い参加者に、このテーマで語り合うのは荷の勝ちすぎる作業ではないかと、思い悩んでいた矢先のことでしたから、このご発言に、私はほっと胸を撫で下ろすような思いでした。『なぜか自分が、夫の死への悲しみをどこかでごまかしているような』、『夫への感謝の思いすら、どこかで曖昧にごまかしているような』という表現に、その日のテーマに繋がる大切な心の動きが語られているのではないかと直感したからでした。
 伴侶の死という出来事は、生前の夫婦仲の善し悪しにかかわらず、その後に続く長い人生のなかで、幾度となく思い返され、見つめ直される、人生最大の出来事の一つと言ってよいでしょう。折りにつけ思い起こされる度に、生前の伴侶と自分との関わり方を振り返り、見つめ直し、これまでの自分の生き方、在り方について考え、ときに自分を肯定し、ときに自分を厳しく責めながら、あるべき自分の生き方を模索していきます。これが『伴侶の死の意味』を考えるということの内容ですが、この反省を繰り返しながら、私たちは知らず知らずのうちに新しい自分を発見していきます。
 しかしこの作業を、わずか4ヶ月間のセッションで完了するのは不可能に近いばかりか、この作業の意味を理解し、その大切さに気づくことさえ容易なことではありません。
 その何よりの理由は、この時期の参加者たちの悲歎が、「悲しみ」というよりは、不安や苦痛、絶望などの入り交じった混乱状態に近いもので、この状態では、内省を要する「死の意味」にまで思いをめぐらす余裕はまずないからです。わずかながらにもそれができるようになるのは、奇妙に聞こえるかもしれませんが、初期の混乱状態がある程度治まり、本当の意味での「悲しみ」が始まるようになって以降のことなのです。
 「本当の意味での悲しみ」という表現に戸惑われる方もおられるかもしれません。しかし、このようなことを考えていただくと理解いただけるかもしれません。例えば、「泣く」という行為について考えてみます。一言で「泣く」と言っても、その泣き方にもさまざまあって、浅い息づかいの「すすり泣き」から、深い息づかいの「慟哭」に至るまで、涙の深浅にはさまざまな度合いがあります。悲しみの感情についても同じなのです。悲しみにも深浅さまざまな種類があって、自分自身を改めて見つめ直す余裕は、深い息づかいを伴う「深い悲しみ」があって初めて可能になるのです。
 確かに、死別直後の悲嘆は激越な苦痛を伴うものかもしれません。しかし、悲しみの「質」、あるいは「深さ」という点から考えると、それは必ずしも「深い悲しみ」とは言えないのです。混乱が治まり、雑多な悲嘆の感情が整理され、次第に純化されてくるとともに、「深い」悲しみは育ってきます。葬送儀礼のすべてが終わり、訪れる弔問客も間遠になり、一人残された寂寥感をひしひしと感じる頃になって、ようやく本当の深い悲しみが訪れてきます。こうしてやっと、死の意味を考える余裕も生まれてきます。
 したがって、深い「悲しみ」が生まれてくる以前にあっては、関心の中心は、当然のことながら、当面の苦痛と混乱を和らげるためのさまざまな工夫や行為に向けられることになります。誰彼かまわず電話をして、自分の混乱を訴えかけるのもその一つですが、それ以外にも、さまざまな自分流の想定や物語を仕立て上げることで、死者への思慕や苦痛や悔恨の思いを和らげる試みがなされます。庭や室内に迷い込んできた虫や蝶に死者の気配を想定したり、飼っているペットにそれとなく死者の面影を投影したり、とくによく見受けられるのは、霊魂の実在をにわかに想定して、亡くなった伴侶の霊との交流を求め、あるいはそれを願う心理ではないかと思われます。霊を信じることができさえすれば、死後の伴侶の動静をうかがうことも出来れば、生前にはできなかった伴侶への謝罪や感謝、犯した罪への償いまでもが可能になるように思えるからです。
 これらの方法が間違えていると言っているのではありません。むしろ、どんなに非合理的で、非理性的に見えようとも、当面の心的苦痛を和らげるのに有効である限りは、いずれの方法も正しいのです。そればかりか、実は、こうした方法は、神道や仏教の思想に裏打ちされた日本人の習俗として、あるいは信仰として、古来より人々が暗黙のうちに信じ、行ってきたもので、その意味では民族の揺るぎない精神的遺産であるとも言えるのです。
 問題は、この時期に行われるこれらの思いや行為が、なんらかの信仰や信念に基づくものというよりは、あくまでも一時的な方便として用いているにすぎないということでしょう。方便である限りは、ほどなく霊との交流を求めようとする積極的な念いも、その必要性も薄れ消えて、「死の意味」について考える大切なきっかけをも失うことになります。
 では、死別直後の時期にあっては、「死の意味」を考える契機はまったくないのかというと、実はそうではないのです。私たちの意識のなかには、「無意識の英知」とも呼ばれるものが存在しています。この英知は、私たちの心の奥底に住む「知恵ある小人」とも呼ばれることがありますが、この英知が、この時期にあってさえも、着実に「死の意味」を探る手助けをしてくれているのです。Aさんのつぶやきが、それを証明していてくれたのではないでしょうか。
 Aさんは、「自分が、夫の死への悲しみをどこかでごまかしているような、夫への感謝の思いすら、どこかで曖昧にごまかしているような」気がしてならないと言っていました。実はAさんは、本当の悲しみも、本当の感謝の思いも、無意識の英知の部分では感じていたのです。にもかかわらず、日常の意識のなかでは、「どこかでごまかしている」ようにしか感じられなかったのです。それはある意味当然のことでもあったのです。深い、真実の「悲しみ」や「感謝の思い」は、現実的で日常的な意識の世界では、普通、表出することが許されてはいないのです。その原因は、真実の「悲しみ」や「感謝の思い」が持つ「深さ」や「誠実さ」にあります。日常的な意識は、その「深さ」や「誠実さ」を許してはくれないのです。
 私たちは、死者に対しては、深い畏れを抱いています。死者を裏切ることは、神を裏切ることと同様に、あってはならないものと、私たちは無意識のうちに考えています。言い換えれば、私たちの内なる英知は,そのように私たちに教えているのです。
 しかし、日常的な意識は、それらが素直に浮かび上がるのを阻害します。ほんの希なる瞬間に、深い真実の感情が、日常的な意識の枠組みを通り抜けて、閃光のように一瞬浮き上がることもありますが、しかし次の瞬間には、その感動は消え失せて、凡庸な日常性のなに取り残されます。人生の大半を、私たちはこの凡庸な日常的感覚のなかで生きています。
 無意識の英知は、この事実を、Aさんの日常的意識のなかで、「どこかで自分をごまかしている」と感じる違和感として教えてくれていたのです。
 この違和感は、とても大切な違和感です。この違和感は、真実の誠実さや真実の感情が違和感の裏側に隠れていることを教えているからです。あとは、この違和感を幾度か重ねながら、「知恵ある小人」が教えている「真実」が素直に意識の上部に浮き上がるのを待つだけです。
 「死の意味」の発見も、「新しい自分」の発見も、このようにして時間をかけ、少しずつ成し遂げられていくのだと思います。


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(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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