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 長編エッセイ

風、いのちのそよぎ


(本文は、妻妙子の逝去一周年記念日にあたる一九九一年九月八日発行の追悼・遺稿集『風、いのちのそよぎ』に寄せた私の追悼文に加筆訂正を加えたものです。長年生活をともにしてきた伴侶の死は、残された者の体の一部をもぎ取られることのようにも、また己自身の死の一部であるようにも感じられるものですが、この文章もそんな気持ちから書かれました。真実の悲しみは、思いがけなくも人を詩人にもし、思索家にもするものだと実感したことでした。しかしここには、死別直後に訪れる悲嘆感情の幾つかの典型が見られます。私事にわたる文章で恐縮ですが、そんな観点から読んでいただけたら幸いです。その後の私のささやかなボランティア活動の原点ともなる体験の記録です。)


 「ああ、うれしい。家に帰れていいな。ありがとうね。ほんとに幸せ、感謝します。」平成元年(1989年)十二月十日、うららかに晴れわたったその日、退院する妙子を二番日の息子とともに迎えに行った私の車に、妙子は大きな花束をもって乗り込みながら、弾むような声で言った。入院生活の間にすっかり細くなった彼女の嬉しそうな顔を、祈るような気持ちで見詰めながら、彼女のいのちの喜びを、私の身内にそよぐ命のように感じながら、私はこの幸せが永遠に続いてくれることを心から祈った。この日、妻の退院を知って、大きな花束を抱えて見舞いにきてくれた私の学生たちと、私たちはつい先ほど病室で別れてきたはかりだった。「皆さん、ありがとうね。皆さんのような良いお弟子さんをもって、長田も幸せです。皆さんにお礼したいから、きっと一度、私の家に来ていただきますからね。私、一度死んで、生き返ったのよ。私、これから一生懸命生きて、頑張ります。皆さんも頑張ってね。」妙子は、自分に言い聞かせるようにこう言って、学生たちに挨拶した。
 一か月半前の平成元年十月二十三日、妙子は、近くの総合病院に第一回目の入院をした。その数日前、彼女は重い腰をやっと上げて、この病院に検査に行った。しばらく続いていた下血の原因を調べてもらうためである。ここ数年、彼女は疲労を訴えることが多く、以前に比べると、ずいぶんとほっそりしてきていた。しかし、これまで病気一つしたことがなく、常に気力充実した活動家だった彼女に、重大な異変が起きているなど夢にも思わなかった。彼女もまた同じ思いだったに違いない。しかし、検査の結果は、即時の入院、しかも手術を勧めるというものだった。
 妙子はこれまでに、四回の入院を経験している。昭和四十二年、長男の出産時、昭和四十五年、次男の出産時、昭和四十九年、虫垂炎の手術時、そして、昭和五十二年の甲状腺腫の手術のときだが、責任感と義務感の人一倍強い彼女は、このいずれのときにも、男の私などには想像を絶するほどの厳しい計画性を発揮していた。教師だった彼女は、そのつど、学生には一切迷惑のかからない休暇中を選んでは入院していたのだ。仕事を持つ女性の生の厳しさ、凄まじさ、男の軽薄さを無言のうちにたしなめるような厳しく美しい女性の生き方を、私はそのつど妻のなかに見るような思いをしていた。しかし、今度だけはそんな余裕は許されなかった。すべての仕事が片付き、冬季休暇に入る十二月になってからの入院を彼女は希望したが、主治医の切迫した雰囲気はおのずと彼女にも伝わってきたにちがいない。「一時は、病院から、すべてから、どういうわけか無性に逃げ出したくなったの」と、病院から帰ってくると、彼女はいつもの静かな調子で私に言った。その時でさえ、私はまだ、彼女の病が深刻なものであるとはつゆほども思わなかった。
 不気味な不安と恐れをいやがうえにも伴い始めたのは、その翌日、病院の看護婦さんから、「主治医の先生がお話したいことがあるそうです、奥様には知られないように」という電話を受けたときだった。なんとも不吉で、暗く、不安な一瞬だった。主治医にお会いすると、「奥様は癌です」と、こともなげな顔をして言う。呆然として見つめている私の目に、医師の顔は不吉な悪魔の顔にも見えた。そのときでさえ、妻の死を想像するなど、私には思いも及ばぬことだった。
 入院する日の朝、出勤前の私に、妻は一言、「ねえ、この病院でいいかしら」と私に訊ねた。病というものにあまりにも無頓着だった私は、「あれだけの構えをもった総合病院だもの、大丈夫でしょう」と気楽に言い、そしてその直後に、取り返しのつかないことを言ってしまったかもしれないと身の縮むような不安を覚えた。今にして思えば、どの病院を選ぼうとも、病院の選択そのものは、彼女の余命とはさほど大きな関係はなかったにちがいない。また、そうであってほしいと願うのだが、その後しばらくの間、私は自分の軽薄さを責めさいなまずにはいられなかった。後になって、手術の最中にも転移状況を検証できる癌専門の病院があることを知ったからだ。用心の上にも用心を尽くし、誠実の上にも誠実を尽くさなかった自分の怠惰を、私は深い罪意識をもって責めずにはいられなかった。妻は、私の言葉を聞くと、さも安心したように、手早く荷物を纏め、これまでと同様、一人で病院に出向き、一人で入院の手続きをし、一人で入院をした。
 私が彼女の病室を訪れたのは、その日の夕がたになってからだった。部屋に入ると、彼女は病院から支給されたらしい薄桃色の着物をきて、ベッドの上に端座しながら、にっこり笑って私を迎えた。そのときの様子の言い様もなく美しかったこと。可憐さと痛々しさとが同時に迫ってくるような美しさだった。薄桃色がよく似合って、まるで娘時代に帰ったような初々しささえある。そんな彼女を見つめながら、私は言い知れぬ感動と感謝の念にうたれていた。私はこれまで、このときほどに彼女を深く見詰めたこともなければ、生きているということだけで、こんなにも美しい彼女の存在に感謝することもなかったのだ。
 その日から、彼女は日々の病院食の献立を記録し始め、こまごまとした身辺記録を綴り、合わせて、紀要論文の執筆にも取り掛かった。数日後、私たちは主治医に呼び出され、レントゲン写真を見せられながら、あるいはストーマ(人工肛門)を付けることになるかもしれない、と告げられた。できることなら患部の手術だけで済ませたい、妙子の思いは私自身の思いでもあった。「私、これから毎日、先生がくるたびに、手を合わせてお願いするわ、どうぞストーマをつけないようして下さいって。」妙子は笑いながらそう言い、可愛らしく手を合わせて見せた。
 手術日は十月三十一日である。それまでの約一週間のあいだ、彼女は一日の時間を、論文の執筆やら、同室の患者さんたちとの談笑やら、見舞い客の応対、また、定期的に訪ねてくださる彼女の友人たちとのお祈りの時間やらに振り分けて、忙しく過ごしていた。私たち自身も、不安を忘れた二人の子供に返って、まるで病室がにわか作りの我が家でもあるかのように、食事を分け合い、それぞれに仕事をし、談笑しながら、面会時間の終わる午後七時頃まで一緒に過ごした。
 手術は六時間に及ぶ大手術だった。待ちに待った未にやっと手術室から出てくると、担当医は、手にした切除部分を示しながら、大規模な手術になった理由を説明した。病名はS字結腸部の大腸癌。不幸にも、癌は大腸の内側にではなく、外側に出来ていて、すでに玉子大の大きさに増殖していた。ストーマをつける以外、選択の余地はなかった。
 ほどなく妙子が、病院の寝台車に乗って帰ってきた。麻酔から覚め始めたばかりの妙子は、さかんに悪寒を訴える。狼狽するだけの私と息子は、看護婦が渡してくれる毛布を次々と彼女の上にかけ、足もとには湯タンポまで入れるのだが、その度に彼女は唇を震わせながら、はっきりしない言葉で、「どうも、ありがとう、ございます」と、まるで見ず知らずの他人にでも言うように挨拶する。私たちであることが認識できないのだ。数時間ほどして、担当の看護婦さんが術後の傷口の様子を調べにくる。なんだか、見ていてはいけないような気がして、私は部屋の片隅に移動し、夜の窓外を眺めるような振りをしながら、窓に映る二人の様子を窺っていた。こまめに動く看護婦さんの手を見つめながら、このときほど、私は人間の手の美しさに感動し、感謝したことはなかった。妙子がいま頼れるのは、看護婦さんの優しい手だけである。「人間の手のなかには、神様がいるのかもしれない」と私はそのとき思い、生涯をかけてこんな美しい手が持てるようになりたいと、心から切望した。
 本当の苦しみが始まるのは、それから数日してのことだった。彼女が見る見る元気を回復し、食事も平常にもどった頃、私は再び看護婦を通して、私とだけ話したいと言う主治医の伝言を受け取った。私と向かい合った主治医は、「手術は成功でした」と言う。ほっとする間もなく、「しかし」、と彼は続けた。「検査の結果は、残念なことに、腹膜に転移がありました」と。一瞬、目の前が暗くなるのを感じながらも、私にはなお、その意味するところがわからなかった。「治療の方法はあるのですね。差し迫った危険はないのですね」、私は重ねて訊いた。だが、その度ごとに主治医は耳を疑うような答えをするのだ。やっとのことで理解したのは、「三ヶ月、あるいは六ヶ月したら再発する」ということであり、「再発する」ということは、「妻が亡くなる」ということだった。「いいですか、わかりますか、わかりますね、いまの医学では致し方がないのです」と主治医は言う。それを聞きながら、私は言い様もない腑甲斐なさをその医師に感じ、理不尽な怒りを抑えることが出来なかった。
 それから間もない小春日和のある日、妙子は、「久し振りに中庭に出てみましょうか」と私に言った。手術後初めて吸う外の空気である。妙子は中庭の陽光を楽しみながら、さり気ない様子で私に訊いた。「ねえ、手術の結果はどうだった?」私は一瞬、返事に窮した。心の中には、「真実を言うべきだ」という迫るような声が聞こえ、その一方で、「それは一瞬の気の迷いにすぎない」と言う声も聞こえた。いたずらに不安を抱かせて何になるのだ、不安なく生きる時間こそが、今の彼女にとっては大切なのではないのか、とその声は私に迫った。たとえ医師の言うことが事実としても、人間が口にするには、それはあまりにも重すぎ、残酷すぎることではないのか。
 「うん、手術は成功だったよ」と、私は言った。しかし、それは、いかにも冴えない答えだったに違いない。「何だか冴えない答えだな」と、彼女は言い、続けて「でも、まさか二年とか四年とかなんてことではないのでしょう?」と言う。それを聞きながら、私は生きているということの罪深さ、神でもない自分が神のごとくにすべてを知ることの罪深さに圧倒され、途方もなく大きな責任感に圧倒された。これ以降、妙子がこの世に生ある間、私は、真実を伝えたいという衝動と、伝えてはならないという衝動との間で、幾度となく揺れ動き、割り切れない苦しさを味わい続けた。彼女の命を長らえたいと思うなら、いま直ぐにでも真実を告げなくてはならないだろう。そうすれば、彼女はきっとそれなりの注意をしてくれるにちがいないのだ。だが医師は、「病気の再発と仕事による疲労とは無関係です」とも言い、「いま、出来る限りの社会生活をさせてあげることが、本人にとっては幸せとなるかもしれません」とも言う。私は幾度となく真実告白の衝動を覚えながら、そのつどそれを押さえては、結局、天命にしたがう道を選んだ。だがそれは、すべてを知る者としての重大な責任を回避したことになるのだろうか。もしそうであったとすれば、私は許しがたい罪を妙子に犯してしまったことになる。
 退院後の妙子に向かって、私は密かな誓いを立てた。医学でもはや直せないというのなら、奇跡に頼り、神の力に頼る以外にないではないか。私は、非合理のそしりを恐れることなく、「祈り」の力に賭けてみる決意をした。
 妙子が退院をした平成元年十二月十日は日曜日である。私は早速、彼女の生活環境の整備に取り掛かった。明日から彼女は、休む間もなく仕事である。生活環境の整備と言えば、それはまずトイレの整備である。ストーマを付けた妙子にトイレがしやすくなるように、トイレの中に器具を吊るすフックをつけ、適当な高さの椅子を見つけ、長時間にわたる場合を考えて暖房具も備え付けた。
 何事につけても前向きな彼女は、一度教えられただけで、ストーマの使用法をすっかりマスターしていた。その夜、私に見守られながら、彼女は初めてストーマを使ってトイレをした。「ああ、これなら楽。少しも辛いことはない。大変なことが、なんでもなくなった」と彼女は言い、私を逆に元気づけた。女性である妙子が、自然な機能を捨てたことに苦しみのないはずはない。にもかかわらず、彼女は苦しみを苦しみとしては受け取らず、むしろ私に感謝することで、私を優しく労わろうとさえしている。私は胸の詰まる思いがした。
 その日から妙子がこの世にある九ヶ月足らずの間、私は、学会その他でやむなく家を明ける日以外は、ほとんど欠かすことなく妙子のトイレに付き添った。出勤前の朝の不便を考慮して、彼女はトイレの時間を就寝前の夜の十時すぎに合わせていたが、それも私には幸いした。夜間の授業を済ませてからでも問に合ったからだ。思えばこれは有難い妙子の配慮であり、神の配慮であったのかもしれない。結婚以来、ともに仕事をもってあわただしい日々を過ごしていた私たちには、ゆっくり二人だけで向き合う時間はほとんどなかった。それえに何の異常も感じないほど、私たちは未来にある無限の時間を信じていたのだろう。だが、それがいま突然にして断ち切られようとしている。それとも知らず、彼女はまた明日から忙しい仕事を始める。二人がともにいられるこのトイレの時間は、何にもまして大切な時間となった。ストーマによるトイレには、普通のトイレに連想される隠微さはない。腹部に作られた人口の出口は機能そのもので、そこから出てくる体内機能のバロメーターを見詰めながら、「ああ、今日のは立派だね」、「ああ、今日はいいのが出るね」などと言っては喜び合い、その四十分ほどの時間を、私たちはその日一日のあれこれを楽しく報告し合いながら、費やした。
 そんなふうにしてはしゃぎながら過ごした日の翌日のことだ。朝方の四時頃、寝室の隣の闇の中から、妙子の重い溜め息が聞こえ、それから「ああ、大変なことになったなあ」と低く、しかし、はっきりと呟く声を耳にして、私は思わず身を縮めた。それは、いかにも孤独で、苦しげな呟き声だった。六時頃、何気ない振りをして起き出した私に、妙子はもういつもの明るさを取り戻して言った。「朝方また落ち込んでしまって。つい声に出してしまったけど、あなたの目をさましちゃたかしら。」
 彼女はこの月の二十二日まで火、水、木、金と仕事があり、そのうち少なくとも二日は、朝から夜十時までの仕事だった。その翌日は、朝七時から夜十時までの出勤日に当たっていた。出かける前に、彼女は言葉すくなに私に言った。「あなたがいなかったら、私、生きてはいられなかった。」さらに続けて、「あなたがいなかったら、私、死んでいたかもしれない。自殺していたかもしれない。でも、自殺するなんて傲慢よね、あとに残る人のことを考えないのだから。私、あなたのために生きるからね。」私は、妙子がはっきりと病を自覚し、孤独と不安とに立ち向かいながら、想像を絶するあわただしさで、いま越し方を振り返り、妻として、母としての生涯に思いを巡らし、大車輪で成熟への道を走ろうとしているのだと想像した。
 家族の一員が病む病は、その一員だけの病ではない。それは同時に、家族全員を巻き込む大きな「心の病」でもあることを、現在の医療関係者はどれほど自覚しているのだろうか。病を忌み嫌うのは、そこに死の影を見るからである。生をこそ唯一の価値とする限り、死の意味の入り込む隙はない。だが、死と身近になって、私たちは初めて心の世界に目を開くのだ。愛するものを失う苦しさを通して、愛することの大切さを知り、優しさの意味に気づき、人の苦悩に目を開く。死をはらんだ世界は、本当の意味で人間を人間らしくさせてくれる呪術的な空間、「聖なる」世界と言えるだろう。そこには患者自身の苦悩に満ちた死の受容と成熟の過程があり、それを見守る家族たちの苦悩と成熟の過程がある。奇跡を願い、神仏の力を求めて家族は祈り、神に誓う。死と接する医療の世界は、この意味では、宗教の世界からさほど遠いものではなく、また、それに携わる人々は、患者と家族の心的変容の場に立ち会う司祭ともなり、牧師ともなり得るのだが、医療界の実情は、「牧師」ともなり「司祭」ともなる心の教養とはおよそ無縁のようなのだ。それについては、もう少し先で触れてみたい。
 妙子が医学では治癒不可能な、限りある命の宣告を受けて以来、妻の病を直せるものがあるとすれば、それは私以外にないのかもしれないと、私は真剣に考えるようになった。だが、医師でもない私に何が出来るというのか。頼れるものがあるとすれば、奇跡につながる祈りの力以外にはない。
 妙子は一九七四年十二月二十二日、クリスチャンとしての洗礼を受けていたが、当時の私はクリスチャンとは無縁であった。そのとき頭をよぎったのは、病室で妙子にお祈りをして下さっていた妙子の友人たちの姿だった。その人たちの神様は、「浄霊」と呼ばれる作法をもつ神様だったが、それをするときのその人たちの手は、私があの病室の窓で見た美しい神様の手とまさに同じものに思われた。
 私もまたまぎれもない現代人で、理性と合理とを棚上げする以外には成立しないこの種の神に頼ることに、私が強い抵抗を感じなかったと言ったら嘘になる。その頃、読売新聞に、妻の死を契機に合理を捨て、非不合理信仰におもむいたらしいある学者についての記事を見たが(二〇〇五年八月現在、私はまだこの記事を確認していない。いずれ確認したいと思っている)、見るともなくその見出しを見ただけで、ついにその内容まで読む気持ちにはなれなかった。
 私自身の根幹を放棄する危機な賭けにも思えたものの、いまそれを吟味し、詮索する時間はない。理屈が必要なら、理屈は後から考えればいい。逡巡する自分の心を、私は下の息子に伝えてみた。医学部志望の浪人中の彼はこう答えた。「さすが、お父さん。可能性は即座にすべてチャレンジだね。」これを聞いて、なんだか急に気が楽になった。神があるなら、誠が通じないはずがない。いやそれよりも、人間の複雑な無意識という構造体には、無心な信仰という経路につながる神秘な癒し、その意味では、科学的でさえある奇跡の通路がないとは言えない。いや、あるかもしれない。私ほそう信じることにした。
 妙子が退院をしたその日から、私は浄霊の真似事を開始した。私は照れながら彼女に言った。「これで、かならず直すからね。」やや上ずったその言葉は、嘘偽りのない私自身の祈りだった。妙子は嬉しそうに聞いていた。
 その日以降、彼女が世を去るまでの間、私は浄霊を実行した。始めたばかりのころは、まるで、子供に帰った二人の楽しい遊びの時間のようであったが、忙しい彼女に、そのための時間をとるのはしばしば至難の業であった。私が不在の日は、近くの信者さん宅を訪ねるよう頼むのだが、彼女はなかなか聞いてくれない。私は恐れることなく、トイレの時間を活用することにした。神の降りる聖なる場をトイレに求める不敬を、私も畏れないわけではなかったが、神が神であるかぎり、神は形を選ばず、誠を選ぶはずではないか。
 私は、彼女に変調が現れるのをひたすら恐れた。帰宅が遅くなれば不安に襲われ、帰宅した彼女の元気な笑顔を見ては安堵した。彼女の健康がこれほどまで私の幸福感に繋がるとは、思ってもみないことだった。彼女が健やかであるのは浄霊のお陰なのだと私は信じ、この幸福が永遠に続いてくれるのを強く願った。もちろん、彼女がクリスチャンであることを忘れていたわけではない。申命記には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあり、「わたしを否むものには、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」とある。彼女がこれを知らないはずはないからである。出来れば彼女に受け入れてほしいと願う今の神について、私は否応なしに考えざるを得なかった。もし「わたしをおいてほかに神があってはならない」と言うこの神が、己れの嫉妬深さと排他性を主張しているに過ぎないのなら、この神は決して高い神であるはずがない。この神が宇宙のおおもとに存在する神であると言うならば、いま私がお願いしている神だって同じ一つの神ではないか。世界には大小様々な神々があるが、それらはいずれも、それよりもはるかに大きなおおもとの神の、そのさまざまな表象であるにすぎないのではないだろうかと。日本人になじみ深い石や樹林の崇拝にしても、静かに実感をかみ締めれば、その石、その樹木を崇拝するからでは決してなく、実は、その石、その樹木の向こうにあるもの、それらを通して喚起される命の力の発動者を見ているからではないのだろうかと。それはちょうど、世界に遍在する無数のおとぎ話が、国々で様々な形をとりながらも、結局は、人間の普遍的な無意識のなかにある共通の神を求める心の過程であるのにも似ているだろう。支流から本流に集まる川のように、神性という大きな流れに繋がる入り口が、西洋人には西洋人の、東洋人には東洋人の入り口があるということだろう。私という存在を考えても同じではないか。無限に連なる生命体系のほんの微細な一つの入り口に過ぎなかった私の両親という入り口から、私は人間という大きな命の流れの大道に加わってきた。微細な入り口だからと言って、私は決して両親を粗末にはしない。両親は、私が命の大道に入る「ご縁」であり、私はこの「ご縁」に心から感謝している。だから、たとえどんな小さな神々でも尊ばなくてはいけないだろう。小さな神々とは、神性という大道にいたるそれぞれの「ご縁」であり、こちらの「ご縁」は偏愛し、こちらの 「ご縁」は否定するという傲慢さは、自分の親だけが人間であり、隣の親は人間ではないと考えるおぞましさと同じだろう。他人の「ご縁」(神)を否定する傲慢さは、結局、自分の「ご縁」(神)を否定する愚かさと同じである。私はこんな感想を妙子に伝えた。それに私は常々、神とは自分の外側にあるのではなく、自分自身の深部に在って隠されており、なにかのきっかけで出会ったときに、それは外在し、姿を見せるものと考えていた。子育てをするようになって、私はこの神観を一層強くした。手の焼ける子供に成長を求めるのは、まさに、子供自身の内側にあるこの隠れた神の現出をひたすら待つことのように思えたからだ。
 しかし、妙子にそんな説明は恐らく不要だったに違いない。素朴な宗教心を自然に呼吸していたのが彼女だったからだ。神社仏閣はいうまでもなく、野の石像や町かどの石像に出会うごとに、彼女はいつも手を合わせるのだった。
 その昔、私たちが新婚旅行に出雲大社に詣でたときのことだ。どちらが言い出すともなく、ご祈祷をしてもらうことになったのだが、さて、その後で彼女はこう言うのだ。「私、なんてお願いしたと思う?・・・・・・あなたの研究が、どうぞうまくいきますように、って。」そのとき、ひどく気恥ずかしさを覚えたのを、記憶している。自分にあまり自信のない私は、研究とは能力のあるなしが一切の決め手で、神の出番がありそうにはとても思えなかったからだった。
 しかし、今にして思えば、彼女の祈りは、道筋の通った正しい祈りであったのだと、改めて感じ入るばかりである。その後、多少なりとも自分の能力を引き出し得たということ自体、秘められた神の力による以外、いったい誰の力によるのだというのだろう。私もまた、内なる神の外在が、永いこと待望されていた人間にほかならなかった。
 十二月二十二日、冬休み前最後の授業をお手伝いしていたM大学で済ませた妙子は、帰るなり、「ああ、仕事が終わった。やりとげたわ。これで肩の荷が降りた感じ」と言って喜んだ。それから翌年の四月、新学期が始まるまでの時間が、妙子にとっても私にとっても、生涯で最も幸せな、最も充実した時間だった。もちろん、この間にも、妙子は学期末試験、入試、卒業式と休む間もなく活動していたが、外面的に見る限りでは、彼女は嘘のように健康を回復していた。しかし、思えばこの間にも、病魔は確実に彼女の内部を蝕んでいた。冬休みに入って二日目の十二月二十四日、たまたま伺っていた布教所の先生に、妙子がこんな夢の話をするのを聞いて、私は胸の詰まる思いがした。「昨夜、夢のなかで、ひとりの喪服を着た婦人が家を訪ねてきるので、私がその人のおなかに注射をしてあげるのです。すると、おなかから真っ赤な血がぴゅーっと吹き出てきました。それから、私は肩にも注射してあげようとするのですが、夢はそこで終わりました。」
 平成二年正月、私たちは彼女の母をともなって、近くの大宮八幡に初詣でをした。私にはひそかに心していることがあった。病気平癒のご祈祷を彼女のためにしてもらうことだ。しかし、こんなことを提案したら、彼女はかえって不安がるかもしれない。しばらくためらった後、私は思い切って彼女に言った。「ね、病気平癒のご祈願をしてもらおうよ。」すると彼女は、「ああ、うれしい。どんな贈り物よりうれしい贈物だわ」と言い、それから心なしか目頭を押さえた。
 冬学期が始まって間もない一月二十日、ある忘れ難い出来事が私にあった。その日の朝、妙子の勤め先の先生の奥様が亡くなり、その夕方、私たちは連れ立って、奥様の本通夜のため先生のお宅に伺ったのだ。奥様は妙子と同年で、しかも、病も同じ癌であった。柩の前で、妙子がお祈りをし、次いで私がお祈りをした。朝亡くなられたばかり奥様の霊は、まだ、あたりにいられるように私には強く感じられた。一瞬ためらった後、私は思い切って、奥様の霊に密かにお願いしてみようと決意した。同じ病を患われた奥様であれば、妙子の不安は奥様の霊と繋がるかもしれないではないか。私は黙祷した。「今日お伺いしている妙子も、同じ癌を病んでおります。どうぞ妙子に幸運を取り次いで上げてください。」
 私たちのお祈りが終わると間もなく、先生は、「どうぞ、顔を見てやって下さい」と言い、お棺の蓋を開けられた。先生と妙子は身を乗り出すようにして、しばらくお棺のなかをのぞいていたが、突然、先生がさも不可解だというように、こう言われる。「おや、家内が涙を流している。さっきまでは、涙なんか流してはいなかったのにな。」その瞬間、私は異様な胸騒ぎを覚えた。これは奥様からの合図であるに違いない、だが、涙を流すという事実は、どう解釈すればいいのだろう。霊となった奥様に言葉が語れるはずはない。涙が奥様の合図であるなら、涙を流すということはどういうことか、私の願いが実現不可能だという悲しみの表現だろうか、それとも・・・・・・。私は、奥様が願いを聞き届けて下さったのだ、これは喜びの合図なのだ、と信じることにした。
 新学期までの本格的な休みに入った頃、私はしばらく止めていた写真を再び始めた。妙子はいま見違えるように元気になり、見違えるように気力が充実している。これほどに美しい妙子を見たことがないほどだ。明るく笑い、楽しく話す。私にはそんな妙子が何物にも勝る美しい芸術品のように思え、優しい仕草や、些細な立ち居振舞い、言葉の端々にいたるすべてをしっかりと記憶に止どめたいと思った。そして、当然、そんな気待ちの奥には、悲しい別れへの準備の気持ちもあった。
 どこに行くにも、私は必ずカメラを持ち運ぶようになった。妙子は温泉が大好きで、いつも心待ちにしていたが、遠くて、豪華な温泉旅行はとてもできない。私たちは暇を見付けては、湯河原の中大寮に車で出掛けた。その近くには万葉の散歩道というのがあって、万葉時代の草花の名前を楽しみながら散歩できる道がある。もう幾度となく歩いた道だが、私たちはもう一度それを辿った。高低のある細い道を辿りながら、私の目は自然のうちに木洩れ日の差す奥深い道、水落ちる滝の風情などを追い求めては、妙子の姿を写真にとどめた。こんなところでも、原始の思考と本能とが自然と息づきだしている自分に気付いて私は驚く。木洩れ日の道を求め、ほとばしる滝の風情を求めるのは、私がそこに命の力を求め、神秘な霊力を求めるからにほかならない。
 寮の近くに立派な天理教の教会があるのに改めて気付き、夕拝に参加させていただいたのも、そんなある日のことである。何時もなら躊躇するに違いない私が、その日に限って自分のほうから妙子を誘い、夕拝への参加をその教会の奥様にお願いした。教会の主は、昼間は会社勤めとのことで、その日の夕拝は奥様のお勤めだった。夕拝の後、奥様が教会の教理を説明して下さる。ここでもまた、病は心の曇りから生じていた。心の曇りを取り去ることが、病を直す道である。そして、甘露台と呼ばれる宇宙の中心。この命の源の象徴について思いを馳せながら、宗教のいかんを問わず、人々が求める神の姿は一つであるのを改めて教えられた。桜咲く頃、近くの和田掘公園で最後となった花見をするのもこの頃である。雪柳の間から顔を出しながら、妙子は「あなたがいるから、怖くはない」と私に言った。不自然にならない程度に、出来る限り多くの写真を撮り続けた。
 ある日、不意に、彼女はこんなことを言った。「ねえ、主治医の先生、私のこと早死にするって言ってた。ねえ、もし私が死ぬってことがわかったときには、きっと外国旅行に連れてってね。約束してね。」そして、「下の子の大学受験が終わったら、毎年海外旅行をしましょうよ。今年あの子が合格したら、この三月は絶対オーストラリアに連れて行ってね。」妙子は黙って息子の大学受験を見守り、合格が一年先に延びたのを見定めると、外国旅行はさっぱり忘れ、一片の失意もなく、想念のすべてをかけて、息子を守る決意をした。
 話は前後するが、妙子が他界して五か月目の今年2月、その一念が不思議な霊力となって実現したような、ある不思議な感慨に私はしばしふけった。不合理とのそしりを恐れず報告すれば、こういうことである。ほぼ今年の合格もあきらめかけていた二月八日、この日は、息子が本命としていた大学の合格発表の日であった。私は、妙子の命日(妙子の祥月命日は九月八日)とも誕生日(四月八日)ともつながるこの八のつく日に、ある信念を抱いて、祭壇に花とわずかな御馳走を備えて祈った。私にはこの日がなにか特別の日であるように思えて仕方なかった。お祈りを済ませてしばらくしたころ、電話がなった。受話器を取ると息子で、興奮しているその声は合格の喜びを伝えていた。その月の十八日、私はその大学の学納金を払いに行った。窓口の女性が渡してくれた整理券の番号を見て、息子が声を上げた。「あれ、お母さんの誕生日だ。」見ると、番号は、四〇八。まるで妙子がさらにはっきりと、自分の存在を連絡しているようではないか。そして、私も出席したその大学の入学式は、四月八日、妙子の誕生日であった。もちろん、すべては単なる偶然の符合だろう。だが、そのとき、私はこう思った。霊の働きは、それを見ようとする者にしか見えないのだと。見えないものを見ようとする心が、霊を生かし、霊と繋がる道であり、霊による救いとも繋がる道なのではないだろうかと。
 妙子に、恐れていた変化がはっきりと現れ始めたのは、四月に入ってからである。四月四日、病院から帰ってきた妙子が、初めて涙を見せた。「私、どうしてこんなに不運なのかしら。先生が卵巣のう腫の症状があると言うの。」私はとっさに、腫瘍マーカーの変化を主治医はこの病名を使って説明しようとしたのではないと推測し、恐れていたものがついにきたのかもしれないと、言い知れぬ恐怖を覚えた。そのわずか半月前、私たちは、再発の心配は今のところないと言う医者の言葉を信じて、喜び合ったばかりだった。
 その数日前、運転免許の書き替えに出掛けた妙子は、帰ってくるなり、興奮したように岡村昭彦という写真家の写真展について語り始めた。帰途の途中、彼女はこの写真展と偶然出くわしたらしい。同じ癌を病みながら、生きる意志を固く信じて壮絶な戦いを繰り返したこの写真家の生き方に彼女は共感し、彼の一つ一つの言葉に魅了され、励まされ、同じように強く生きる自分の意志を確かめながら、彼女は展示を見続けていった。最後まで来て、その写真家がすでに五年前に他界していたのを知り、彼女はしばし放心の状態になったというのだった。彼女のショックが、私に痛いほど伝わってきた。子供の遊びのような浄霊に、変化が起きた。
 それまでの浄霊は互いに腰掛けての浄霊だったが、もはや椅子などに座っていられる余裕はなかった。私は居間の絨毯に端座すると、椅子に座る妙子に向かって手を差し延べた。彼女の驚き、不審の思いを考慮する余裕は私になかった。だが、彼女はそれを見て、にっこり微笑った。それから数日して布教所に伺ったおり、彼女はそれを明るい調子で先生に告げ、それから、涙を流した。
 仕事に追われる彼女に、浄霊の時間を見つけるのは難しかった。私は、彼女の睡眠時間を利用するのを思い付いた。彼女に気付かれぬよう、心配させぬよう、私は細心の注意を払って、眠っている(と私は今も信じている)妙子に向かって闇のなかで手を延ばした。ある夜、自分の仕事を終えて寝室に入り、いつものように闇のなかの妙子に向かって手を延ばした。すると、「すみませんねえ、こんなに遅くなってから」と、小さく、しかし、はっきりと言う彼女の声が闇のなかから聞こえてきて、私は仰天した。全身を緊張させて、その後の妙子の声を待った。しかし、闇のなかからは、妙子の静かな寝息だけが聞こえていた。
 五月も半ばになった頃、主治医は妙子の再入院を勧めた。腫瘍マーカーが二百四十にもなっていると言う。「一日も早く入院して、化学療法を始める必要があります」と主治医は言い、その一方で、また、こうも言った。「しかし、化学療法をしても直るという保障はありません。そのまま出られなくなる可能性だってないともかぎりません。ですから、できるだけ長く社会生活をさせて上げるのも、一つの道です。」
 私は彼女に入院を勧めた。「少し、強い薬を使って、体調を調えるといいから。」私は、「化学療法」という言葉を用心深く避けた。しかし、彼女は、「まだ仕事があるから、今は入院などとても考えられない」と強い調子で言う。結局、入院は食欲が急に落ちたり、白血球が激減したりした場合のことにして、しばらくは通いで化学療法をすることにした。
 M大学の出講日に当たる金曜日ごとに、彼女は、授業の前の時間を使って治療を受けることにした。化学療法がどんなものかも知らぬ私は、治療を受けて出勤する彼女のことがなんとも心配でならなかった。初日であった五月二十五は、私の出講日の日でもある。勤め先に着くと、研究室員の女性が彼女からの伝言をメモにして伝えてくれた。そのメモには、「注射をして二時間後、肩から首にかけて締め付けられるように重くなったが、しばらくすると、正常に戻ったから安心して」とあった。私はほっとした。
 初めこそ、この治療はよく効いたらしい。「わたし、きっと直る。体の調子がそれを知らせているもの」と、数日後に彼女は言った。次の週、病院の検査から帰るなり、彼女は明るい声で報告した。「主治医の先生にその後の調子を聞かれたので、私、あの薬は元気の出る薬でしょう、って言ったの。そしたら先生、驚いたような顔をしたわ。」それから、まじめな顔をしてこう付け加えた。「本当の理由はわかっているの。浄霊が効いているのよ。」
 六月に入ってから、妙子は足の不調を訴え始めた。足がつる、足がむくんできた、と彼女は言う。足の方は日毎にひどくなるらしく、ほどなく強い痛みを訴え始めた。雨傘を痛々しく杖代わりに使いながら、ある日、それでも元気に勤め先から帰ってくると、彼女は私のこう言った。「ね、私、これから杖を使うわ。このほうがずっと楽だもの。杖を使っている人は、大勢いるものね。」次々と妙子に襲いかかってくる変調、そして、それを一つ一つ受け入れていく妙子、その姿を見て、私は悲しく、不憫でならなかった。
 その頃からであった。朝、勤めに出掛ける彼女に向かって、私は突然、衝動的に、合掌の姿をとり始めた。「行ってらっしゃい。気を付けてね」と言いながら、合掌して送り出す。その姿の異常さを、私も意識しないわけでは決してなかった。しかし、合掌せずにはいられないほど、一瞬一瞬があまりにも貴重に思われ、その刻一刻にあらん限りの感謝と切なさを込めずにはいられなかった。妙子は、一瞬、怪訝な表情で私を見詰めた。それから微笑を浮かべ、同じように合掌した。
 七月一日、妙子は自分に言い聞かせるようにこう言った。「私、もうすぐ五十三。五十二歳を無事越えられたら、希望が持てそう。」だが、七月に入ってから、急に疲れを見せ始めた。腫瘍マーカーは五百三十を示していた。寝息も苦しそうで、心なしか、いびきも高くなっているようだった。食欲もなく、便秘がちで、わずかな便は黒ずんでいた。それでも通常通りに仕事をこなし、労演の観劇の会にも欠かさず出席した。七月三日はその観劇の日で、その日が彼女の最後の観劇の日となった。『カドリールゆらゆるスカーツ』を見に、俳優座劇場で、私は勤め先から直行してくる彼女を待った。開演間際になっても、彼女も、その日一緒に参加することになっていた彼女の友人も現れない。私は不安に襲われ、様々な最悪事を様々に思い描いて、彼女の無事を祈っていた。間もなく彼女が姿を見せた。痛々しく雨傘を杖にしながら、それでも元気そうににっこり笑って。私は人目も構わず、彼女の腕をとった。彼女は恥ずかしそうに肩をすくめた。
 七月六日、七日は、私たちが主催するアメリカ演劇学会の年会日である。後ろ髪を引かれながら、私は、明日香で行われたこの学会に出席した。学会のあとの翌七日、私たちは仲間の車で、明日香の岡寺、橘寺、明日香資料博物館などを見学した。だが、岡寺に行っても、橘寺に行っても、私の関心はつい妙子の病気平癒を祈願することに向けられてしまう。私の異様な行動に、友人たちはさぞ不審を抱いていたことだろう。だが、そのたびに辛抱強く待っていてくれた。
 この日、私は、明日香資料博物館で、大きな力で私の心を捕らえるものを見詰めていた。飛鳥時代に噴水として使われていたらしい「石人像」と呼ばれる巨大な石で、翁の背におうながおぶさり、柔和な翁、おうなの口から水が吹き出る仕掛けだった。それは、はるか遠い昔から人々の心を捕らえて離さなかった、偕老同穴の理想を表現したものなのだろう。おうなを背負う翁の顔も柔和であれば、翁に背負われるおうなの顔も穏やかである。男と女はこのようにして遠い昔から身を寄せ合い、助け合い、協力し合って生きてきたのに違いない。私はこの石人像に、私たちの未来の姿を重ね見た。そして、一瞬、眩暈のような限りない優しさを身内に覚え、この翁のように、私もまた、一度でいいから、年老いた後の妙子の体を背負ってみたいと渇望した。私はこの日の感動を、折りを見てぜひ妙子に伝えなければと心に誓った。夜九時ごろ家に着くと、妙子は部屋から飛び出すようにして、私を迎えた。「ああ、待ち遠しかったわよ」と言いながら。しかし、その夜の妙子は、いつも喜んで飲んでいた人参ジュースをもう飲めなかった。
 七月に入ってから、私は以前よりも一層執拗に妙子に入院を勧めていた。しかし、彼女はその度に、「今は入院出来ない。授業がすべて終わってから。夏休みに入ってから」と言う。私は強く反対することができなかった。主治医の言う万が一のことがあるならば、妙子はいま、自分なりに人生の最後を計画しているのかもしれない、と思ったからだ。
 七月九日、この日は妙子の診察日である。帰宅すると、彼女が疲れた様子で肘掛け椅子に身をもたせ、悲しげに打ち沈んでいる。それでも、私の顔を見るなり嬉しそうに、「いま買い物に出ようと思っていたのよ。でも、歩けないので、少し待ってからにしようと思って」と言う。そして出し抜けに、「なぜ先生は、こんなに早く入院しろって言うのでしょう」と私に言い、「私、死ぬのは怖くないの。でも、あなたや子供たちに迷惑をかけるのかと思うと、それがすまなくて」と、言うなり彼女は、初めて激しい感情を露にして私の腕のなかに泣き崩れた。彼女を抱き締めながら、私は言葉に詰まった。安易な慰めの言葉など口にすべきときではない。妙子を強く抱き締めながら、神に祈る以外に何もできない自分の無力に、私は絶望した。妙子はまもなく自分を取り戻した。「ああ、不安を口にしたら、すっきりした。このことがいつも胸につかえていたの。」彼女は明るくそう言った。その夜、私たちは近くのレストランで食事をした。だが、彼女に食欲はなかった。思いだけがあふれて沈黙しがちなこの食事が、この世で二人が外で一緒にした最後の食事だった。
 七月十日夜九時頃、妙子は疲れた体と足を引き摺るようにして帰ってきた。夏休みまで、残る授業はあと一日。彼女は最後まで授業をやり抜くつもりである。しかし、その夜、床に付いた妙子のいかにも苦しそうなこと。闇の中から彼女のうめくような声が聞こえ、足の痛みにからか幾度も寝返りをうつのが伝わってくる。朝の四時頃、彼女はようやく眠りについた。しかし、そのいびきは明らかに異常であった。私は、もう入院させなくてはいけないと思った。明日こそ彼女に強く勧めようと思った。
 七月十一日、さすがに体の異常を感じたのか、彼女は起きると、「今日は病院に点滴をしてもらいに行く」と言う。「元気をつけないと、夏休み前最後の授業が明日できないから」と。一緒に車で病院に行き、入院の手続きをする。彼女は翌日、病院から授業に通うつもりなのだ。手続きをしながら、彼女はいつもの明るい調子で窓口の人に言った。「今日入院します。よろしくね。」それからつけ加えてこう言った。「ぜひ2本の足で、歩いて退院したいと思っています。」「2本の足で」退院する――この冗談めかした言葉のなかに、どれほど彼女の願いが込められていたことか。5時間ほどをかけて点滴したのち、入院用の荷物をまとめにひとまず家に帰った。再び病院に向かうに先立ち、彼女は洗腸した。おびただしい鮮血が溢れ出した。それを呆然と眺めながら、彼女は初めて差し迫った入院加療の必要を実感した。直ちに勤め先に電話をし、明日の授業の休講を連絡した。
 七月十一日の入院から、二か月に三日を欠く九月八日の逝去の日まで、彼女は病魔と果敢な闘いを実行したが、この二か月間は、永遠とも思える暗く苦しい不安と緊張と祈りの日々であった。輸血と点滴を始めたが、日ごとに体力は衰えるばかりである。まるで院までに、すべての精力が使い果たされてしまったという感じだった。「助けて、しばらく助けてね。私、絶対に直るから」と妙子は言った。そして間もなく、彼女は強靭な意志力をもって、病気克服のための努力をし始めた。
 入院の目的は化学療法をすることだったが、主治医は輸血と点滴をするだけで、化学療法に入る様子は一向にない。癌はすでに、腹膜を出て尿管を塞ぎかけ、さらに大腸を侵し、肝機能も弱っていた。直る見込みのない患者を見る時間はないとでも言うように、診療のほぼすべては若い医者に任され、主治医が立ち会うのは朝の回診程度であった。そんななかで、彼女は決然として、点滴の拒否を申し出た。自然な摂食をせず、点滴に頼ることが、彼女の体力を弱らせる原因であると、彼女は決断したのだ。私は一瞬不安を覚えた。だが、結果は彼女の言う通りだった。自力で食事を取るようになるにつれ、彼女の体力は嘘のように回復し始めた。
 この頃から彼女は、病に対する自分なりの覚悟をし始めていたのだろうか。病室は四人部屋で、同室の患者さんの一人は妙子とほぼ同年輩年の婦人だったが、脳溢血から右手の自由が利かなくなっていた。その婦人は、不自由になった自分の手を呪い、不運な病を呪いながら、同室のもう一人の老婦人に衣類の洗濯などを助けてもらっていた。身体に目に見える障害のない妙子は、他の誰よりも健康そうに見えたにちがいない。その婦人は、まもなく妙子にも洗濯や手足のマサージなどを頼み始めた。見ている私には、それが何とも辛いのだ。妙子の病気がここにいる誰の病気よりも重いのを知っているのは、妙子を除けば、私以外にはいないからだ。私自分を含めての生きている人間の罪深さとは、あるいはこういうことを言うのかもしれあいと、私はふと考えたりした。しかし妙子は、一向に意に介する様子もない。その婦人を助けながら、彼女はあるとき「病は神様の下さる恵みだそうですから、恨んではいけないそうですよ」と言い、体力の続くまで手伝い続けた。
 主治医の方からは何の方針も打ち出されない。有効な治療を心待ちにしている妙子が、私には気の毒でならなかった。私は苛立ち、不安になった。ただ手をこまぬいて時間を空費している自分があまりにも無責任に思われ、ひょっとしたら取り返しのつかない過ちを犯しているのかもしれないと思われた。
 思いつめた私は、初めて、友人から聞いていた蓮見ワクチンを試してみる決意をした。主治医は蓮見ワクチンには反対であるどころか、どうやら敵意すら抱いている様子だった。入院して五日後、私は逡巡に逡巡を重ねた末、若手の医師の了解を取り、ワクチン使用の手筈を整えた。もっと早い段階から、できれば手術の直後から、この決断をしていなかったことがひどく悔いられ、罪の意識を覚えながら、なんとか間に合ってくれることを心から祈った。その十日後に、待ちに待ったワクチンを手にしたのが、主治医との不幸な行き違いから、ワクチンは結局、一度使われたにすぎなかった。
 ワクチン使用にいたる前に、妙子は腎臓を保護するためのバイパスを体外に作ることが必要になった。彼女には大きなショックだったにちがいない。私もできることなら、これ以上妙子の体に傷を付けたくはなかった。「できることなら、この手術はしたくないのですが」と、私は主治医に正直に言い、この手術がどの程度に必要性なのかを確かめた。すると主治医は、「家族の了解がなければ、しないだけです」と憮然として言う。この返答を聞いて、私は無性に腹が立った。医学に無知なのが普通の患者の家族ではないか。無知ゆえに家族が不安を抱いて問い質すのは当たり前のことではないか。医師としての良心があるのなら、「この手術は必要なのです。お願いしてでもやらせて欲しい手術なのです」となぜ言えないのか。その結果、たとえ手術が失敗しても――この手術に、さほどの危険がないことは素人目にも明らかではないか――恨むようなことをするはずがない。主治医は明らかに面子にこだわり、自己責任を強調することで、医師としての責任を回避したのだ。私は、遠慮しながら――患者の家族は、愛する家族の一員である患者を人質に取られていると感じるのだ――正直にその事実を伝えた。すると主治医はいきなり、「何を!」と怒鳴り立てた。私は、妙子のことを考え、自分を押さえた。これが日本の医科大学における教授たちの実態なのだろうか。私はこういう教育のもとで育てられる後進の医師たちを思い、寒々とした。もうこの病院にいるべきではないと、私は思った。
 それ以降、主治医は何かにつけて私の言葉に過剰反応をした。第一回目のワクチンを打った日、すでに腸閉塞を起こしていた妙子の激しい腹痛とぶつかった。主治医は「おまえ、何を持ち込んだのだ!」と激しく私を非難した。私は珠光会にすぐ電話し、それが副作用であるのかどうかを確かめた。どうやらそうではないらしい。私は改めてワクチンの使用をお願いした。「こんな副作用のあるものが打てるか。打ちたければ別の病院に行け!」と彼は怒鳴った。そのとき、彼は、妙子の余命が後三か月だとも言った。私には彼の神経がどうにも理解できなかった。
 八月に入ってから、妙子は夢の話をすることが多くなった。「私が死ぬことになりそうなのだけれど、野原のおばさんがいなくては死ねないので、あちらこちら捜していた。」野原のおばさんとは、妙子が生前親しくさせていただいていた知人なのだが、私は、この夢が、妙子の臨終の場に大急ぎで駆けつける事態となった私自身の状況を予言する夢であることに改めて気付き、あのとき、酸素マスクに覆われていた妙子の耳に、私のかぼそい声がぜひ届いていてくれたことを祈るばかりである。妙子はまた、こんな夢も報告した。「悪なる火がさかんに燃えたぎっていて、私はその火を一生懸命避けようとしているの。気づくと、神様が、私の額の上に座っていて下さったの。」 
 七月二十七日のバイパス手術の頃から、彼女はめっきりと弱り出し、間もなく腸が動かなくなった。そんなある日のこと、私はあの明日香で見た石人像の写真を彼女に見せ、「ぜひ、一緒に見に行こうね」と彼女に言った。彼女はその写真を黙ってしばらく見詰めていた。それからまもなくして、彼女はぽつんと言った。「私、直ったら一生恩返しをするからね。」それから大急ぎで付け足すかのようにこう言った。「天国からもね。」
 妙子の余命があまりないことを、私は覚悟した。彼女の病については、ごく親しい人たちにしか伝えてなかったが、もう、それだけではすまないかもしれない。彼女の不安を掻き立てない程度で、あまり遅くならないうちに、しかるべき人々には現状を知らせておくべきではないだろうかと、私は考えた。手初めに、彼女の勤め先の同僚たちに連絡し、ついで、彼女が現在一番親しくしている教会関係の方々に連絡することにした。思い悩んだ末の決断だったが、やはり連絡をして良かった。特に教会関係からは、司祭ご夫妻をはじめ大勢の方々がお見舞いに駆けつけて下さり、私の知らなかった彼女のもう一つの生活圏を知ることになった。教会関係の方々とのつながりからは、新たな希望も生まれてきた。教会付属の病院に入院加療の可能性が出てきたことだが、それもう少し先のことである。
 私はかすかな手づるを頼りに、とある病院の先生にお願いに上がった。だが、その先生も、今はもう病院を変えるときではないと言う。最初に手術をした病院が、結局は、患者については一番良く知っている病院なのだからと。しかしその先生はその折に、忘れがたいこんな助言をしてくださった。「私も医師でありながら、つい数年前に、弟を癌で亡くしました。人生には、人間の力ではどうすることも出来ないことがあるようなのですね。今あなたは、あなたの優しさから、奥様のために何もできずにいる自分を責めていらっしゃいます。でも、いずれあるとき、一定の時間が過ぎたときに、ああ、あのときにはああすることしか出来なかったのだな、と自分できっと納得できるときが来るでしょう」と。
 妙子が最後をこの病院で迎えると想像するのは、余りにも暗くてやり切れなかったが、教会の人々のおかげで、程なく、新しい病院に転院することが決まった。妙子は喜び、早速そのことを主治医に伝えた。それからほどなくして、私は廊下で若手の担当医とすれ違った。彼は「転院するそうですね」と言うなり、身を小さくかがめるようにしてすり抜けていった。私はそれが彼の忸怩たる思いの表現であったに違いないと思い、若手の医師に関する限り、日本の医学界もまだそれほど捨てたものでないのかもしれないと思った。
 転院する二日前、移ってからでは遠くなって大変になると考え、年老いた彼女の母を病院に案内した。義母にはまだ何も知らせてはいなかった。義母が病室に入ってくると、妙子は嬉しそうに微笑ながら、しかしこう挨拶した。「怪我でもしたらどうするの。私が直ったら、私の方から出掛けていくのに。私に心配をかけないでね。」そう言ってしばらくしてから、彼女は母に向かって手をかざし、母のために浄霊を始めた。しかし妙子の腕に力はなく、か細くなった手をベッドの柵で支えながらの浄霊だった。母を思う妙子の姿を見て、妙子はもう女神になったのだろうかと思った。その翌日も、私は義母を案内した。妙子は同じように浄霊した。
 八月十日の朝早く、私たちは寝台革で新しい病院に向かった。昨夜来の台風の余波を受けて、風の強い雨模様の日だった。まるで天地が、私たちの不安を映し出しているかのようだった。寝台事のなかの妙子は何も言わない。時折、苦しそうに足の痛みを訴え、氷を求めるだけである。妙子は今何を考えているのだろうか。そんなことを考えながら、私は新しい病院が妙子のために新しい転機となってくれることを心から祈った。
 新しい病室は家具の揃った広々とした個室で、テーブルもあればタンスもある。その豪華な装いと静かなたたずまいを見て、私は初めてほっとした。ここでなら妙子も落ち着けるかもしれない、私はそう思った。そんな気持ちが私の顔にも現れていたのだろうか、「あなたもほっとしたでしょう。顔でわかる」と妙子が言った。子供たちのため、私たちの将来のために節約だけを心がけてきた彼女にとって、この病室での一か月間が、彼女の生涯で最も豪華で、最も寛いだ一か月間であったかもしれない。それを思うと、不憫でならない。
 私は妙子の衣類や化粧道具を、タンスや戸棚のなかに整理し始めた。そして、突然、胸に激痛が走るように驚いた。さしあたって妙子に必要なものすべてを、私は、十年前、家族揃ってアメリカに滞在したときの大型の旅行カバンに詰めてきた。当座の荷物の持ち運びには、これが一番便利だと思ったからだ。衣類を一つ一つダンスに入れている途中で、私は妙子と交わしていた約束を、強烈な衝撃を伴って思い出したのだ。退院して間もない頃、彼女は私に言っていた。「ねえ、もし私が死ぬってことがわかったときには、きっと外国旅行に連れていってね、約束してね」と。何てことをしてしまったのだ。私は強烈な罪の意識にとらわれた。妙子がこの奇妙な符合に気付いたら、彼女は何と思うだろう。外国旅行の約束を果たせなかったことだけで、私はもう十分すぎるほどの罪深さを感じていた。それを、よりによってこんなときに、こんな形で外国旅行を真似るとは。私は、彼女にぺテンをかけたような苦しさを感じ、心のなかで手を合わせずにはいられなかった。
 ここでももちろん、もう打つ手はなかった。こちらの主治医もそれを承知で受け入れていてくれたのだ。転院した当初、主治医はちょうど外国旅行中で、しばらくは挨拶もできなかった。帰国後も、病室に顔を出すのはときたまのことで、妙子の臨終の場にも居合わなかった。転院して数日した頃、「ここでは、主治医の先生がお祈りもしてくださるのよ」と妙子は言って、喜んだ。週に一度ずつ来てはお祈りしてくださる牧師さんを、モルヒネ系の痛み止めを使い始めていた彼女は、主治医と勘違いしていたのだ。末期患者を途中から受け入れるということは、医師、特に看護婦にとっては大きな労働負担になることだから、途中から受け入れてもらえたことだけでも、感謝しなくてはならなないだろう。しかし、患者の家族の側からしてみれば、余命いくばくもない末期患者であればこそ、残り少ない命を大切にしてくれる心遣いと愛の献身を期待したくなるのは当然だろう。キリスト教の理念に立つこの病院に私が期待したのも、彼女の最後を安らかにしてくれる愛の理念と献身だった。しかし、神ならぬ人間に、組織に、それを期待するのは、やはり求め過ぎなのだろう。
 私が最も恐れたことは、当初こそにこやかに歓迎してくれた看護婦たちが、負担のかかる患者の世話に辟易し、それを顔に現して彼女を悲しませることだった。ただでさえここは内科病棟で、洗腸のやり方さえ知らなかった。看護婦たちの負担を省き、居心地の良さを少しでも長引かせるために、私はできるかぎり手伝うことにした。しかし、忙しい看護婦たちは、そのうち、私のほうが上手だからと言って、その仕事を私に任せ始めた。問題は、彼女たちが私に仕事を任せたことではなく、そうすることが患者に与える心理的な影響である。末期患者であればあるほど、患者は放置感に悩まされる。妙子は淋しそうに私に言った。「放っておかれるようになったわね。前より良くなったのだから仕方ないけど。」前より良くなっているはずはなく、彼女はそう考えることで、自分を慰める以外になかったのだ。
 看護婦さんとのことでは、もう一つ忘れられないことがある。妙子の命がもう旬日もない頃のことである。癌はすでに大きく肝臓に転移していて、妙子は痛みに苦しみ始めていた。どうやら、彼女は、前夜からしばしばナースセンターにコールを入れ、腹部のマッサージを頼んでいたらしい。翌日、私が病室を訪れた直前にも、コールを入れていたのに違いない。間もなくやや先輩格の看護婦が現れ、私の姿を見るなり、「ご主人がいらっしゃるではありませんか。これくらいのことはご主人に頼んで下さい」とけわしく言った。「主人では駄目です。看護婦ではありませんから」と妙子は言った。すると、その看護婦は、「そうですか、看護婦は介護者ですか?」と言う。妙子は静かにこう続けた。「そうですよ。大きい意味では、看護婦は介護者です。」私が愕然としたのは、その後の看護婦の言葉だった。「そうですか。私はまだ勉強が足りないんですね、勉強が。」それを聞いて、私は思わずその看護婦の顔を見た。一体彼女は何を勉強してきたと言うのだろうか。看護婦になるための知識なら、少しぐらいは勉強してもきただろう。しかし、そんな知識は、職業につくための最低の技術(知識)に過ぎないことぐらい彼女は知らないというのだろうか。看護婦として本当に学ばなくてはならないのは、「人の心を理解する」ことではないか。患者の「心」にとかく無神経な医療界で、傷ついた心に湿布ともなる心のケアに携われるのは、看護婦さんしかないではないか。旬日もなくこの世を去る患者に(たとえシフト制であろうと、経過は必ず看護日誌に残されているはずである)、優しい言葉もかけられないのが今日の医療教育の実態ならば、なんとも淋しいことである。
 病状はますます進んでいるのに、妙子はますます美しくなっていった。微熱は最後まで取れることがなかったから、顔色も人目には健康そのものである。私は朝起きると、まず近くの大宮神社にお参りし、それから妙子の所に行くというのがリズムとなった。十時頃病室に着き、私は妙子に挨拶をする。「おはよう、妙子。」ベッドの上の妙子は、それを聞いて、上を向いたままの姿勢で、二度三度とあいづち打つ。私にはその姿が痛々しいほど可憐で、そのたびにこの一瞬の美しさを、深く、深く脳裏に刻み付けた。妙子は胃のなかの水を取り出すための管を通していたから、口がきけない。私が妙子に感謝と愛情を表現できるのは、この朝の挨拶のときだけである。私は神に祈るときのように、この短い朝の挨拶のなかに心のすべてを詰め込んだ。それを聞いてくり返しうなずいている妙子は、もろもろの思いをその無言のうなずきのなかに精一杯に詰め込んでいるのだろう。そう思うと、私はせつなかった。八月十七日、妙子は栄養補給のための中心動脈カテーテルを、複雑な思いをこめて胸に入れた。
 幾度となく逡巡した後、私はついに家の整理整頓を決断した。妙子はどんなに忙しいときでも、人が訪ねて来るときには必ず家の掃除をし、玄関には打ち水をしていた。万が一のときに、彼女に恥をかかせるようなことがあってはならないだろう。前の病院から退院した直後の頃、彼女は「障子の張替えと畳替えをしなくてはね」と気にしていた。数日前のことだったが、私は恐る恐る、何気ない振りを装って彼女に言った。「障子と、畳のことだけどね、何なら、僕が頼んでおこうか?」と。それを聞いて、彼女はいかにも寂しそうに言った。「もう少し待って。退院したら、私がきっとするから。」彼女を裏切るようなことはしてはいけない、と私はそのとき思った。障子と畳の張替えは、生還にかけた彼女の願掛けであるかもしれないと思ったからだ。たが、それももう、待っていてはいけないように思われた。妙子を裏切る罪深さを感じながら、私は表具屋と畳屋に注文した。
 カテーテルを入れて三日後の八月二十日、疲労し切っているはずの妙子が、驚くべき意志力を発揮して、立ち上がる決意をした。それは、私の教え子たちが見舞いにきてくれた直後のことだった。「いいわね。あなたたち元気で」と彼女は言った。二人が帰った後、彼女は一大決心をしたかのように、長い、長い時間をかけてベッドから立ち上がり、私に抱かれるようにしながら、数歩あるいた。「ああ、歩けた。手術のあとのときよりずっと力強い感じ。これなら退院できそう。あなたのおかげよ。」
 翌日、彼女は早速、リハビリの先生を呼ぶことにした。まもなく女性の先生が姿を現し、しばらく雑談を交わした後、リハビリが始まった。肝臓に大きく転移している彼女には、過激な運動は禁物である。それを熟知している先生は、妙子の足をごくゆっくりと、上に下に、右に左にと、数回ずつ運動させる。このわずかな運動を終えたあとで、妙子は嬉しそうに言う。「ああ、よかった。成功したわ。もう大丈夫。希望がもててきた。」若手の医師によれば、「この病状で、こんなに元気なこと自体が」不思議なことであったらしい。
 八月二十四日、彼女はベッドの上に起き上がり、お世話になった方々に最後の葉書を書き始めた。それから間もなく、うつつ寝のなかで盛んに一人言を言い始めた。私はそのつぶやき声に耳を傾けたが、はっきりとはしない。まもなく、「一生懸命家に向かって歩くのだけれど、途中でどうしても歩けなくなってしまって・・・・・・」というのがはっきりと聞こえ、それから突然、はっと目を覚ましたように言う。「まだ、これからしなくてはならない仕事がたくさん残っていると思ったら、急に意識がはっきりしたの。」妙子に危険な状態が近づいているらしいのを、私はいやがうえにも意識せざるを得なかった。
 その翌日も、うわごとは続き、時折、はっと目覚めたように辺りを見回しては、「ねえ、私、なんだか変だから、話しかけるようにしてね」と言う。モルヒネのせいなのか、血圧がさがっているためのせいなのか、現実と幻覚とが混在するのだ。「ねえ、そこに私の生徒が座っているでしょう。ねえ、そこに、いるでしょう」と、誰もいないベッドの脇を指して何度も確かめ、誰もいないことが分かると、「ああ、やっぱり」と、いかにも寂しそうな顔をする。その日は静かな一日で、見舞い客もほとんどない。静養するにはまたとない一日である。この静養が妙子の死を待つ静養ではなく、快復を待つ静養であったらどんなに幸せなことだろう。もう、ほとんどとどめることの不可能な妙子の命であると思ったとき、突然、「永遠の命」という言葉が、私の脳裏をかすめた。そうだ、この世で妙子の命がとどめられないなら、彼女の永遠の命をとどめよう。そのときの私には、キリスト教で言う「永遠の命」と妙子の「永遠の命」の間にまだ区別はなかった。今でもそうかもしれない。妙子が目覚めたとき、私は妙子に言った。「あなたには、私の神を信じてもらったのだから、私も、あなたの神様を信じないと公平ではないね。クリスチャンになろうと思うけど、どうだろう。」妙子は、一瞬息を詰めるようにして黙った。それからしばらくして、「嬉しい」と言い、「この話は、何度かしようと思っていたの」と彼女は言う。「実は私、あなたが先にいくときには、臨終の場で洗礼していただこうと考えていたの。」一瞬、目の前に、あるいはあったかもしれなかった私たちの遠い未来の姿がまるでネガフィルムのように浮かび上がり、私の臨終の場で私の死を悲しんでいる妙子の姿が見えた。「洗礼名は、ルカね。せっかくここのチャペルで洗礼を受けるんだから。洗礼日は、十二月二十四日ね。」十二月二十四日は私の誕生日であり、私たちの結婚記念日でもある。そして今、彼女はまた、洗礼日を私の誕生日に合わせようとしている。「でも、そんなに遅くて・・・・・・」。私はそう言いかけて、急いで思いとどまった。
 八月二十八日、妙子は激しい悪寒を訴え、血圧が急に下がり始めた。カテーテルを入れ替え、腎臓のCTをとるが、原因はわからない。それでも妙子はしきりに「立ちたい」と言う。看護婦がシーツを取り替えている間、彼女は私の手にすがり、座っていた椅子から立ち上がり、「手を離して」と言う。それから、足早に二度、小さく足を動かす。そしてうれしそうに言う。「二歩あるけた。ああ、嬉しい。」入院当初、妙子は「八月中にはきっと退院する」と言っていた。それが「夏休み明けまでには」になり、その夏休み明けももう間近い。夏休み明けの授業を目指して、彼女は必死なのだ。
 その夜、血圧が急に下がり、集中治療室に入った。翌二十九日の朝、前夜その連絡を受けていた私は、集中治療室に向った。厳めしい医療器具の前を過ぎて部屋に入ると、彼女は思ったより元気である。そればかりか何か華やいだような陽気ささえある。看護婦さんが妙子の体を清拭している。彼女は私の顔を見るなり、こう言う。「看護婦さんたちに、お花を一本ずつ上げて頂戴。演出よ。演出が大切なんだからね。長いこと洗腸ありがとうございましたって。」最初、私は妙子の言っている意味がどうもつかめず、ひどく不安になった。ひょっとしたら、脳に転移したのではないだろうかと。だが、ほどなくその意味がわかってきて、私は慄然とした。彼女は、自分の葬儀のことを言っているのだ。
 まもなく司祭さんがお見えになり、ミサをして下さる。この病院にきてからも、彼女はミサのたびに綺麗な衣服に着替え、白い紙を几帳面に小さく四角折して献金を用意した。リハビリの先生を迎えるときには、必ず白い靴下を履かせるようにと私に頼んだ。
 さて、ミサが終わると、妙子は私に向かって、謎のようなことを言う。「インマヌエル。かつて私はインマヌエルの考え方で自分の考えを固め、今それで固まる。」聖書にうとい私には、インマヌエルを始めとする彼女の言葉が、神秘な謎としか思えなかった。しかし、大切な妙子の言葉として、私はしつかりとノートに書きとめた。この手記を書くにあたり、私は改めて言葉の意味を確かめ、あのとき彼女が伝えようとしていた意味をはっきりと理解した。「インマヌエル」とは、イザヤ書にあり、またマタイ伝第一章にある言葉で、「神われらと共にいます」という意味であり、イエスのことであった。
 それからしばらくして、十分に血圧が上り切らずにいた妙子は幻覚状態を起こした。彼女は突然、私に向かって、「ほら、そこに馬がいるでしょう」と言う。「馬なんかいないよ」と言うと、妙子はまたかと言うように悲しそうな顔をし、それからまた言う。「ほら、たくさん馬がいるでしょう。覚えておいて、馬がいる。一番下に馬がいる。パッカ、パッカ、パッカって。」私は、妙子の奥深いところで闊歩している逞しい馬たちの勇壮な姿を思い描いた。そして、妙子の生きようとする不屈の意志が、逞しい命の力が、いま踊っているのだと思った。それから妙子は、「答えは言ってはいけないよ」と言い始めた。「ほら、女子学生たちが大勢、勉強しているでしょう。女性の地位を向上させようとして、一生懸命勉強しているの。」「じゃ、もう、歩きながら授業をします。」この最後の言葉を聞いたとき、私は切なく胸が詰まった。妙子はこれほどまでに仕事に戻りたいと思っている。もう、勤め先の大学まで辿り着くことができないとでも思ったのだろうか、妙子は、歩きながら授業を始めた。
 翌日は、彼女の勤め先の先生方が、後期の授業の可能性について、主治医の先生に最終的に伺いにくる日であった。主治医は、それが不可能であることを伝えた。そのあと、先生方が妙子を見舞って下さったとき、妙子は、私たちが仲人をした学長のご長男にこう言った。「少しずつ順調に良くなっていますからね。よろしくお願い致します。」妙子はそう言って合掌した。この病院にきて以来、見舞客に彼女は必ず合掌してお別れしていた。主治医は、彼女の余命が「あと二週間」と言い、宿泊看護の体制を私に勧めた。
 間もなく、教会関係の人たちが司祭ご夫妻とともに訪ねて下さる。司祭が部屋に入ると、彼女は、「二人だけでお話がしたいことがあります」と申し出た。外に出ていた私のところにほどなく司祭が来られて、「奥様がご主人の洗礼を望んでおられますが、お受けになられますか」と尋ねられた。
 洗礼式は次の日、八月三十日であった。妙子とゆかりの深い多数の方々が参列して下さった。その中には、その日、妙子に浄霊をしにきて下さっていた若いご夫妻も加わっていた。
 九月に入って血圧も落ち着き、妙子は私に、ルカ伝を読んでほしいと言う。私は彼女の枕もとで、声を出して読み始めた。この書を読み終えたら、すぐ、次のヨハネ伝に入りたいと私は思った。ヨハネ伝に入りさえすれば、それを読み終わるまでは、妙子の命が続いてくれるように思えたからだ、その次の日も、私は読み続けた。彼女が眠っているらしいときにも、私は先を急ぐようにして読み続けた。静かな一日であった。この日も、私は妙子の部屋に泊まるつもりでいた。
 七時すぎになって、妙子が、突然、「今日は七時半に帰って」と言う。また私の健康を気遣い始めたのだ、と私は思い、「今日も泊まるつもりだけど」と私は言った。すると彼女は、「帰ってほしいの。一人になりたいから」と言う。「一人になりたいので、個室を取ったのだから」とも言う。私は、その厳しい調子に驚いた。だが、まもなく、胸をえぐられるような思いで、私はすべてを理解した。妙子はいま、自分ひとりになって静かに自分自身と向かい合い、これまでのすべてを振り返りながら、成熟と完成のための準備をたった一人で済ませようとしているのだと。妙子は「死の受容」期に入ったのだ。
 翌九月三日、病室に行くと、妙子はひどく疲れている様子である。昨夜は一晩中、目覚めていたのかもしれない。時折うとうとしながら、苦しそうな声まで上げる。痛み止めに使っているモルヒネ系の薬が、そろそろ効かなくなってきていたのだろうか。でも、意識はしっかりしている。いつものようにルカ伝を読み進めると、それを聞くともなく聞きながら、彼女はうとうととしている。四時頃、しばらくお休みにしていたリハビリの先生がきた。リハビリの時間は、この病院で妙子が持つことのできるたった一つの楽しみであり、外の世界、生の世界とつながる唯一の窓であり、一日のなかで最も充実した時間である。妙子は、嬉しい悲鳴を上げるようにして、先生を迎えた。今日は若い男の先生である。妙子はいつものように白い靴下に履き替え、片方の足からいつものように、足をそっと上下に動かし、左右に動かす。それから同じ動きをもう一方の足にもして、短いリハビリの時間を終え、さて、先生がベッドの上の妙子の様子をにこやかに眺めていると、妙子は突然、「先生、歩かせて」と言った。妙子の病状を知っている先生は、しばらく考えるようにしていたが、それから、意を決したように、「いいでしよう」ときっぱり言った。妙子を抱きかかえるようにしながら、先生は妙子をベッドの上に座らせ、それから、ゆっくりゆっくり立ち上がらせた。すると妙子は、信じられぬほどの速さで、先生の腕のなかに守られながら、小さく続け様に、幾度も幾度も足踏みをした。その様子は、まるで、足踏みをする楽しみを奪われまいとして、必死でむさぼろうとする子供のようでもあり、生きていることの実感を今生のかぎり味わい尽くそうとする、妙子の必死の命の饗宴であるようにも見えた。その姿はあまりにも美しく、あまりにも神々しいものに見えた。生きているということだけで、命があるということだけで、人間は、こんなにも美しくなれるものなのだろうか。ベッドに戻った妙子は、「ああ、嬉しい。よかった」と言って、しばらく目を閉じた。妙子の死の四日前のことであった。私は自分のなかに、妙子の命が吹き込んでくれるのを感じた。妙子が命の美しさと楽しさを実感できたのは、この日が最後であった。
 翌日も、その翌日も、私は、教会の人たちのお手伝いもいただきながら、妙子にルカ伝を読み続けた。しかし、妙子は、もう、立ち上がることはなかった。
 九月五日、妙子はついに、夏休み明けの授業が不可能であることを自分なりに納得した。言葉もままならなくなっていた妙子は、身振りで私にノートを手渡すように言い、とるべき手続きの指示を書き記した。あれほど達筆だった妙子の文字が、ほとんど判読不可能なのを見て私は驚いた。授業はしばらく不可能であるゆえ、休講の措置をお願いしたい、とあり、あわせて同僚の英語の先生に来ていただきたい旨の指示があった。走り書きの下のほうに、主治医の若い先生がお見えにならないがどうしたのか、という質問が添えられていた。その二、三日前、夏休みで旅行に出るので妙子によろしくと、その先生から伝言を受けていたのだが、心の支えを一番必要としているこの時点では、とても妙子に伝えることはできなかった。私は簡単に事情を説明したのち、「他の先生方がすべて心得ているから、安心していていいよ」と彼女に言った。妙子は一瞬、淋しそうな顔をした。
 九月七日、最後のお見舞い客を送り出したあとで、待っていた同僚の先生がお見えになった。その時間はちょうど処置の時間に当たっていて、私たちは脇に立って、初めて見る若い男の先生の指示で、看護婦さんたちが忙しくガーゼの取替えをするのを眺めていた。その最中に、腎臓につなげていたカテーテルが外れた。看護婦の一人が、その若い医師に目配せして、合図をしている。若い男の医師のほうは自信なさげに考えている様子であったが、まもなく看護婦に促されるようにして、領いた。私は、「あれ、入れ替えるつもりかな」と思い、数日前に、主治医の若い先生が「もう、取ってもいいかも知れませんね」と言っていたのを思い出した。そのことをその医師に伝えるべきかと一瞬思ったが、私はそのまま押し黙っていた。医師であれば、私に言われるまでもなく、適切な判断をするはずだと考えたからだ。だが、ずっと後になってから、こうした場面に出くわした同じ立場の多くの女性たちの対応の仕方を聞くに及んで、私は、自分の「医師への信頼」が、実は自分の気の弱さから来る「気後れ」であり、「逃避」であり、「無責任」と同義であるのに気づいて自分を責めた。
 妙子は手術室に運び出され、私たちはその間、約一時間余のあいだ部屋で待つことになったのだが、私は、ただでさえ多い苦痛の上に、さらに不必要な苦痛まで妙子に与えてしまった自分の不甲斐なさに思い悩み、罪の意識に苦しんだ。傍らでは同僚の先生が、「授業ができなくなったことで、ショックにならなければいいのですが。それが心配です」と、ぽっつり言った。
 予想外の長い時間のあとで、妙子がやっと帰ってきた。見れば、すっかり疲労困悠し、目はぼんやりとして、虚ろである。私は急に心配になり、「この目はどうしたんです。こんな処置が必要だったのですか」と、やや怒気を含んだ大声で、目配せをしたその看護婦に向って言った。すると、意識も虚ろかと思っていた妙子が、静かな声で、しかし、はっきりと、「大きな声を出さないで。大丈夫だから」と私に言った。その看護婦も、「いま痛み止めの薬を与えてあるので、ぼんやりしているのです」と説明する。それを聞いてややほっとするとともに、すべてのことにいまや平安を求めようとしている妙子の気持ちが伝わってきた。だがなお、医師の判断に私は納得がいかなかった。病室から出てきたこの医師に、私は、この手術が必要であったのかどうか、なぜ、主治医に相談なくやったのか、を問い質した。その医師は正直に、それがあまり必要のない手術であったことを認め、かつ、若い主治医の所在が分からないのだとも言った。主治医たるものが、連絡先も知らせずに旅行に出るという不謹慎さ、そして、それを許しているこの病院の管理体制にも驚きを隠せなかった。しかし、あのとき一言言わなかった私にも責任はある。私は身に染みて理解した。医師だから医療の判断が正しいとは限らないと。正しい判断が出来るのは、正しい叡智を持つ者でしかないのだと。
 それから間もなくして、妙子の血圧が下がり始めた。看護婦たちが慌ただしく駆け回り、昇圧剤の処置にかかった。およそ三時間後、夜の九時頃なって、妙子の血圧がようやくほぼ正常に戻ってきた。だが、どうしたと言うのだろう、そのとき急に私は帰りの交通のことが気になり出した。今夜も泊まるべきではないかと思いながら、明日持ってくる洗濯ものが気になった。これで妙子の血圧が下がったのが二度目である危険を考えるよりは、前回の血圧も無事上がったことのほうを考えた。私は妙子に言った。「大丈夫かな。帰ってもいいかな。」妙子ははっとしたように目を開け、「いま何時」と私に聞いた。「九時」と私は答えた。すると妙子は、「ああ、大変。帰って、帰って。また、あした来て」と言う。私は、妙子の言葉にしたがった。気になりながら。罪の意識にかられながら。そして、主任看護婦がベッドのシーツを取り替えたときに、コールボタンをいつもとは反対側に置いていたのを思い出しながら。大丈夫だろうか。妙子にボタンの位置がわかるだろうか。道々不安を感じながら、しかし何事もないことを願いながら、家路についた。
 翌九月八日の朝八時頃、そろそろ家を出ようとしているところに、電話が鳴った。胸騒ぎを覚えながら電話をとると、病院からである。「奥さんの血圧が急に下がり始めました。すぐ来て下さい」と言う看護婦さんの声が聞こえる。続けて「ここまでどれくらいかかりますか」とも言う。私はますます不安を掻き立てられ、「一時問はかかります」と答えた後で、「大丈夫ですか」と念を押した。看護婦さんはただ「とにかくすぐ来て下さい」とだけ言う。私は用意していた荷物を持ち、道々妙子の無事を祈りながら、慌ただしく病院に向けて出発した。
 朝九時、病室に入ると、妙子はすでに酸素マスクをかけられて、いつもと変わらぬ綺麗な顔を、一定の間隔をおいては上げ下げしている。「少し前から意識のない状態に入りました」と若い医者が説明する。私は「妙子!」と、呼び掛けた。思い切り大きな声で呼び掛けたかったのに、出てきた声は、自分ですら小さすぎるように思われる声だった。こんな声で聞こえるはずはないと、思い迷っているうちに、看護婦さんの一人が、すぐさま大きな声で、「長田さん!ご主人が来ましたよ」と言ってくれた。私は心のなかで感謝し、その声が、妙子の耳に届いてくれるのを心のなかで願った。しかし、それが聞こえたのか、聞こえないのか、妙子の顔は相変わらず、頷くような恰好で、幾度も幾度も綺麗なあごを上下しているだけだった。
 私は、昨夜、泊まらなかったことを悔やんだ。そして突然、鋭い苦痛が胸を走った。昨夜の妙子が、さぞ孤独で淋しかったに違いないと思われ、意識あるうちの言葉で、妙子がどんなにか私にお別れの挨拶をしたかったに違いないと思われたからだ。
 癌の告知をしてこなかった私たちには、「癌」と「死」は、互いに語ることのできない禁句だった。死後のことを語り合うことも、ましてや、残される者たちに託したいと彼女が考える彼女の思いや意志を確かめることなどは、およそ論外のことであった。それは、つらく、切なく、大きな心残りとなることではあった。だが、今にして思えば、それはそれで良かったのではないかとも私は思う。それまで私たちは、互いに察し合うことで生きてきた。彼女が望むことも、伝えたいことも、彼女が敢えて口にするまでもなく、私にはよくわかっていた。彼女も同様だったに違いない。見舞い客が来るたびに、彼女は「長田がすべて知っていますから」とだけ言って、自分では一切しゃべることなく、病状の説明のすべてを私に任せていた。病名についても、死についても、口にすることこそしなかったが、彼女にはすべてが察しられていたに違いない。無言を守っていたのは、私の気持ちを配慮してのことだったに違いないのだ。
 とは言え、最後のお別れをする機会を与えられなかったことは、何としても悔やまれた。彼女の祖母が九十歳の天寿をまっとうして亡くなったとき、その様子を、彼女は感慨深げに語ってくれたことがある。死を迎える数か月前から、ボケを知らぬ祖母もようやくにしてボケ始め、荷物をまとめては「家に帰らせていただきます」と言うようになったらしい。ところが、死の数日前になって、祖母は、突然、意識を取り戻し、娘である彼女の母の前に正座し、合掌しながら、「本当に長いこと、大変世話になりました」と丁寧に挨拶したというのだった。几帳面な妙子は、できることなら、自分でもこの祖母と同じ様に、けじめのあるしっかりとした挨拶を私にしたかったに違いない。私たちが結婚式をあげる前夜、妙子は、ひとり静かに机の前に座り、私の母に向けて、嫁になるものとしての丁寧な挨拶の手紙を書き置くような人だったからだ。
 私が病室に入ってからおよそ二十分後、九月八日、午前九時二十二分、享年五十二歳と五か月で、妙子は静かに息を引き取った。それはあたかも、彼女が私に話していたあの夢のように、「私の顔を見ないでは死ねない」と必死に思い、耐えに耐え、待ちに待った末の死ではなかったのだろうかと私は思った。その死が、無事思いを遂げた末の死であることを、私は心から願わずにはいられない。
 この世のすべでの苦しみから解放され、いまは美しい女神となって降りてきた妙子と再び霊安室で会ったとき、私は、この一年間、ただの一度として口にすることの出来なかった彼女の病状のすべてを話し、不必要な苦痛まで与えてしまったことを切なく謝罪し、最後の別れの場すら与えられなかった私の愚かさを謝罪した。素直に流れる自分の涙をいかんともし難いまま、私は妙子に言った。「妙子、妙子のことだから、きっと、私にお礼が言いたかったんだね。でも、いいんだよ。妙子の考えていることは、すべて、よくわかっているからね。ごめんね、妙子。本当によくやってくれたね。ありがとう。本当にありがとうね。」
 その日の午後、妙子は、あんなに「二本の足で歩いて」帰りたいと願っていた自分の家に、寝台車で帰ってきた。妙子は、下の六畳の日本間に体を休めた。部屋には、張り替えたばかりの障子が囲み、張り替えたばかりの青々としてすがすがしい畳が敷かれていた。妙子との約束を破って私が勝手にしてしまったことだったが、ここに静かに横たわった妙子は、驚きつつ、やはり、ほっと安心していたにちがいない。
 聖マーガレット教会での通夜は九月十日、告別式は十一日。それまで二日間、楽しみにしていたこの家で、妙子はゆっくり休めるのだ。やや長めの休息が与えられて当然だろう。死にいたるまで、自分のことはいつも二の次で、まず私のこと、息子たちのことを考えてくれたのだから。本当の意味であなたと一つになる濃密な時間を私に与えてくれるために、あなたは入院の時期まで夏休みに合わせ、お陰で、これまでの一度として味わうことのなかった(これからの人生ではおそらく二度とない)、この上なく充実した豊かな時間を、至福の二か月間を、私に与えてくれたのだから。
 思えば妙子は、一陣の風のように、あわただしく、激しく、私の前を過ぎ去っていった。だが、この上もなく大切なものを私に残して。それは、かつてなく大きな悲しみの心を私に教え、その悲しみの窓を通して、命の大切さに、優しさや愛の大切さに気づかせてくれたことだ。そうしたものを教えてくれた彼女の死は、私に対する彼女の最後の愛の贈り物であり、愛の行為だったのにちがいない。私はいま妙子という窓から、ある種の神を覗き見ている。その神は、自由自在、融通無碍、限りなく強く、限りなく大きく、あらゆる束縛を乗り越えた広大無辺の神である。妙子の過ぎ去った後に漂う風、それは、さわやかないのちの風、いのちのそよぎの風だった。

(妙子の一周年のために。平成三年七月二十七日)  


日本グリーフ・ケア・センター
(代表 中央大学名誉教授 長田光展)

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