グループ・ミーティングの意味と構造
―― 会に参加される方々に
日本グリーフ・ケア・センター代表 長田 光展
1.グループ・カウンセリングの意味と目的
伴侶の喪失は、残された人々にしばしば克服し難い、深い苦悩を引き起こします。その苦悩の多くは、伴侶の死によってもたらされる大きな衝撃を、残された者が十分に消化しきれずにいることから起こっています。伴侶の死の悲しみを克服するというのは、悲しみを忘れることではなく、意味あるかたちでそれを消化し、悲しみを残された者の心の成熟につなげることができたときに本当の意味で克服されます。
しかし、これを残された者が一人で行うのは、しばしばきわめて困難なことです。この悲嘆の中には、本人も気付かぬ様々な要素が複合しているのが普通で、この複雑に絡まる悲嘆の要素を整理し、本人自らがそれらに気付いていく作業も必要となるからです。そこに、一定の見通しを持って悲嘆克服の作業を手伝うグループ・カウンセリングの存在意義があります。
グループ・カウンセリングでは、伴侶の死という同じ体験を持つ人々が集い合い、共通の体験を分かち合うことで、次のような気付きや体験をしていくことができます。
(1)苦しい、悲嘆の体験の中にあるのが自分一人ではないことに気付く。
この会に出るまでは、しばしば、自分の苦しみと悲嘆は自分だけのものであり、自分だけが特別だと考えがちでした。その孤立感が、抑うつ感を一層深め、出口のない、解決不可能な絶望感を誘ってきました。しかし、会に参加することで、同じ悲嘆の経験をしているのが自分だけではないことを知り、孤立感から解放されます。孤立感から解放されるということが、悲嘆克服の大切な第一歩となります。
(2)同じ体験をした者同士の理想的な交流が保証される。
長年生活をともにしてきた伴侶の死は、残された者には、しばしば、自分自身の死の一部であるようにも感じられ、その深い喪失感は、同じ伴侶の死を経験していない人々には決して理解してもらえないもののように感じられます。同じ経験をしていない人々からの慰めの言葉は、ややともすると、心のこもらぬ空しい言葉だけの挨拶のように感じられ、ときには、その言葉によって慰められるよりは、傷付き、反発を覚えることすらあります。
伴侶を失った人々は、自分の悲しみを人ごとではなく、自分のものとして受けとめ理解してくれる相手、同体験者たちとの出会いを求め、その人達との安心できる交流を求めています。グループ・カウンセリングの場は、伴侶を失った人々にこの理想的な交流を保証する場でもあります。こうした場が保証されて、人々は初めて心のうちを自由に、自然に語ることができます。心の拘束を解放し、感情を心置きなく吐露することが、悲嘆克服には大切な第二のステップとなります。
(3)素直な感情を自由に発露できる心の「オアシス」空間が保証される。
したがって、グループ・カウンセリングの場は、参加した人々が自分の感情を心置きなく素直に、ありのままに表現することが許されていると感じることができる、優しさと配慮に満ちた空間でなくてはなりません。ここに参加した人々は、これまでの自分の生活圏を、自分の悲しみを語っても理解してもらえない、冷たい、冷淡なものと考えてきました。カウンセリングの場に来て、初めて、自分の悲嘆や苦悩に心から耳を傾け、その悲嘆を人ごととしてではなく自分のこととして受けとめ、理解し、それゆえに、悲嘆のなかにある仲間を優しく包み、愛育してくれる場所を見付けたのです。
カウンセリングの場は、その意味では、日常の生活圏の中では容易に見出だすことのできない、特別に作り出された優しさと配慮に満ちた心のオアシス空間と言うことができます。そこでは、参加者全員が交互に助ける者、助けられる者、慰めるもの、慰められるもの、愛育するもの、愛育されるものとなりながら、お互い同士の悲嘆の過程と、その克服の過程を相互に見詰め合い、学び合いながら、参加者全員が自然のうちに心の傷を癒していきます。
(4)体験の共通性を発見して、心の重みから解放される。
参加した人々の悲嘆を構成している要素の中には、他人には知られたくないと思い、表現することをためらい、自分のなかの秘密として人には語りたくないと思うような要素もあります。仲間のそうした思いに対しては十分に配慮し、その気持ちを尊重してあげる必要があります。しかし、悲しみの一部を閉ざして語らないことには、実は、癒しのためには、プラス面よりはマイナス面の方がずっと多いことも知っておく必要があります。悲しみの一部を心の秘密として閉ざしたために、それが心の束縛となり、孤立感を一層強め、その結果、悲嘆と抑うつを必要以上に増大させることにもなりかねません。
早く立ち直るためには、自分の思いを素直に語ることのほうがはるかに有効なのです。人には語ってはいけない、語りたくない、と思うような事柄や感情も、実際には、その人の個人的な思い込みであることのほうが多く、実は、参加者全員に共通している事柄であり、感情である場合のほうが多いのです。他の参加者たちの話を聞いているうちに、自分だけに特別だと思い、語るのに気後れしていた事柄や感情も、実は、自分だけに特有のものではなく、参加者全員に共通したものであることに気付きます。癒しは、真実の自分になること、つまり、心を解放することから生まれますが、しかし、語る、語らないは、あくまでも参加者本人の自由にまかされなくてはなりません。
ここで参加者全員に厳守していただきたいことが一つあります。それは、ここで話されたことはここ以外の場所では一切他言しないという約束、「秘密厳守の約束」です。これが守られて初めて、安心して語ることが可能となる癒しの空間が生まれるからです。
(5)参加者たちは相互に悲嘆克服の過程を見詰め合うことで、癒しと成長の道を発見する。
グループ・カウンセリングの癒しの力は、参加者一人一人が他の参加者の真剣な生きる姿を見ることから生まれます。参加者は同体験者である他の参加者たちが悲嘆を表現し、涙を流し、そして、可能な限りの努力をしながら自己の悲しみと苦しみに耐え抜き、それを克服していく姿を見ます。その様子は、それを見る者の心を打たずには置きません。その美しい姿は、見る者の心を励まし、勇気づけ、浄化し、「この人にできるなら、この私にもできるはずだ」という意志の力を生み出します。そして、それが、癒しに繋がります。
また、カウンセリングが進むにつれて、人々のなかから冗談が出、笑いが出るようになります。この笑いもまた大切なのです。笑いは、悲しみや苦しみに対して少し距離を置くことができたことの印であり、心に余裕が出始めたことの証拠であるからです。カウンセリングの始まりの頃には言葉も十分に発することのできなかった人々が、会の後半から徐々に笑いを見せるようになります。笑いが出るかどうかは、癒しの進み具合を見る重要な指針と言っていいでしょう。癒しとは、煎じ詰めれば、悲しみという一点にだけとらわれていた自分の心に、以前の伸びやかな弾力と広がりを取り戻してやるということに他ならないからです。しかし、以前の弾力と広がりを取り戻した心は、悲しみを経験することのなかった以前の心と同じものではありません。それは、悲しみという素材を立派に消化・吸収して成長をとげた、新しい心の誕生になるはずです。
(6)「悲しみ」は、心の成長を見詰める大切な「窓」であることに気付く。
八回のセッションが終わる頃には、参加者たちは一様に明るさを取り戻し、人生にも前向きに立ち向かうことができるようになっています。しかし、ここで忘れてならないことがあるようです。カウンセリングの目的とは、確かに、人々の悲しみ・悲嘆・苦しさを少しでも和らげ、人々がそれらを克服していくのを手助けしていくことには違いありません。が、それは、悲しみ・悲嘆・苦しさをすべて取り除くとか、それらを完全に忘れ去らせることではありません。私たちにとって、悲嘆の苦しみは確かに辛いものではありますが、しかし、この悲しみや苦悩がなかったら、私たちは本当の自分自身を、心の真実を、深く見詰めることはなかったのではないでしょうか。「悲しみ」とは、この意味で、真実の自分を見つめ、心の成長を見詰める、大切な「心の窓」であることにも気付きます。
伴侶の死という貴い犠牲を払うことで、私たちはこれまで気付くこともなかった人の命の大切さや、愛することの大切さに、初めて気付くことができました。したがって、立ち直るとは、伴侶の死の悲嘆や苦しみをすべて忘れることではありません。「成長を見詰める大切な窓」である悲しみ、苦しみは、忘れてしまうにはあまりにも貴重な心の糧であるからです。悲しみは、それを忘れるのでなく、美しく消化し克服して、それを自らの成長に繋げるときに、悲しみは生き、伴侶の命が生き返ります。カウンセリングを終わった後にも、やはりかすかな悲しみの疼きは残り続けます。しかし、その疼きは忘れてはならない大切な疼きなのです。それは、あるいは伴侶の命という大切な犠牲があって初めて私たちに訪れることを許された、私たち自身の成長の印、言い換えれば、伴侶の命の再来であるかもしれないからです。
以上を要約すると、ミーティングの目的、参加者の目標、参加者のルールは、次のようにまとめることができるでしょう。
会の目的 |
伴侶を亡くした人々が相互に体験を分かち合い、どうすれば悲嘆から立ち直ることができるか、どうすれば現在抱えている問題を効果的に解決することができるか、その方法を互いに学び合い、気付き合う。 |
参加者の目標 |
1.感情と体験を分かち合う
2.体験から学ぶ
3.悲嘆から立ち直る
4.成長した自己と新しい生き方を発見する |
参加者のルール |
1.他人を批判しない 2.秘密を守る |
2.グループ・カウンセリングの組み立て
伴侶を失った者たちが通過する悲嘆の過程には、ごく大雑把に言って、初期、中期、後期、そして立ち直り期である最終期、の四つの段階に分けることができます。初期段階には、その最初期の反応のひとつとして、本能的無意識的な「死の否認」とも言える茫然自失、マヒ状態をあげることもできます。伴侶の死に見舞われたと知った瞬間、呆然自失する状態ですが、普通これは、意識が激しいショックを認識して崩壊する危険を防ぐために、本能的に意識そのものを麻痺させる自己防衛反応と解されています。しかし、この反応は必ずしもすべての人に現れるとは限らず、あっても、数秒、数分、数時間、長くても数日程度で終わるのが普通です。しかし、これほどに劇的ではないけれども、正常域を超えて深刻な死の否認状態を呈することはあります。心の安定を保つために、伴侶の死を強く否定し、生きているという幻想を長期にたって持ち続けようとしたら、それは正常域を超えて深刻な「死の否認」と言えるでしょう。
しかし、もっと緩やかな「死の否認」であるなら、むしろ一般的であるとさえ言えます。「悲嘆」そのものが、ある意味では、姿を変えた死の否認とも言えるからです。「死の否認」状態とは、言い換えれば、伴侶の死の事実が、「自分の意識のなかではまだ生死未分化の状態にある」ことです。「伴侶がまだ死んでいるとは思いたくない」、「信じられない」という思いは、「追慕」や「面影探し」の形をとって、道行く人の中に伴侶の姿を見つけ、追い求めさせることもあります。また、亡くなった伴侶の写真に語りかけ、お墓の前で伴侶の霊に語りかけるのも、形を変えた「死の否認」感情とも言えますが、こうした感情はむしろ心の安定を保障する安全弁として、長く生き残る正常な感情でもあります。問題になるのは、正常域を超えて深刻な否認感情で、それが長期にわたって残る場合には危険です。この感情は、比較的安定をとり戻したのちにも、たとえば伴侶の死の事実が突然想起されたときなどに訪れるパニック状態という姿をとることもあります。
初期から中期にかけては、しばしば強い怒りの感情や不当感が台頭してくることがあります。怒りは、医師や看護婦といった医療関係者、親戚縁者、友人、葬儀にかかわるお寺や牧師、ときには運命、神などにも向けられますが、死者その人に向けられることもあります。
日本人には受容的な精神が濃厚であるため、怒りの感情そのものの表明が外国人に比べてはるかに少ないように思われます。またその怒りが死者その人に向けられているような場合には、文化的、社会通念的な心理機制が強く働いて、表明そのものを困難なものにしてしまいます。しかし、怒りがある場合には、それを閉じ込めるのではなく、開放してみることも大切です。怒りのなかには正当なものもあれば、悲嘆状態という特異な状態のなかでの思い込みによるものもあるでしょう。開放された感情はまもなく客観性を取り戻して、その怒りが正当なものであるのかどうかを自分自身知ることになるからです。死者その人に向けられる場合も決して不自然なことではありません。夫婦間の怒りの感情と同じように、怒りは、しばしば死者との関係修復を求め、死者の愛情と存在を求める姿を変えた追慕の感情であることがしばしばあるからです。また、伴侶の生存中には押し殺されていた感情が、伴侶の死とともに噴出してくることもあります。この場合にも怒りは怒りとして一度表出してみることが望ましいのです。怒りを表出するということは、自然な心の状態になるということですが、自然を取り戻した感情は、やがて自己の偏向を見直す客観性をも取り戻します。また、夫婦そろっている周りの人たちを見るにつけて、ときに悲しみと怒りの混じった羨望感や敵意を感じることもあるでしょう。
そしてさらに長く残る重要な感情に罪意識や罪悪感があります。これは悲嘆のなかで最も大きな感情の一つで、自分の不手際を責めたり、過去の自分の至らなさを悔やんだりして自分を責めます。
このような段階を経た後、死別についての否定しがたい事実の認識を深めるとともに、まもなく深い孤独感と抑うつ感に襲われ始めます。無感動感、無目的感をしばしば伴って現れるこの抑うつ感は後期の特徴的な感情ですが、これこそが、立ち直りには大切な感情なのです。バイオリズムの最下点とも言える抑うつ期が、私たちに生きる力を無意識のうちに摸索させてくれるからです。苦しいこの時期を経ながら、私たちは徐々に死の事実を受容していきます。愛する者の死に執着ばかりしているのではなく、死の事実を認め、自分の置かれている現状を直視し、この状況にふさわしい新しい自分を作ることを始めます。この最終段階にいたって、私たちは愛する者の死を意味あるかたちで消化し、その死を私たちの命として生き返らせ、死者の命を生きなおすのだとも言えるでしょう。
以上の幾つかの感情は、必ずしもこの順序通りに現われるというのではなく、幾つかは同時的に、あるいは行きつ戻りつしながら現われるのが普通です。したがって、初期、中期、後期という区分けもあくまでも大雑把な区分で、相互に重複し合っているというのが現実ですが、以上の心理的症状を大まかにまとめると以下のようになるます。初期段階(ショック、パニック、死の否認感情など)、中期段階(追慕、幻想、怒り、敵意、羨望、苦々しさの思い、罪意識など)、後期段階(孤独と抑うつ)、最終段階(死の受容と新しい自分の発見)。現在、自分がどの段階にいるのかを診断してみるのは、立ち直りの程度を判断する目安として役に立ちます。長いトンネルの先には、必ず光があるのです。
伴侶を亡くした人達の克服し難い悲嘆は、この段階のいずれかの箇所で作業が停滞しているか、坐礁していることに原因があると考えられます。グループ・カウンセリングの場は、現在の自分の心境を語り、他人の心境を聞くことで、この幾つかの局面を再現し、生き直し、代理体験することを通して、一つ一つ障害を解きほぐし、停滞し、坐礁している悲嘆作業を順次に先に進めていく作業であると言えるでしょう。
本会のグループ・カウンセリングは次のような内容で構成されています。
第1回目( 月 日) 「配偶者の死の体験について」
第2回目( 月 日) 「伴侶の死の否認について」
第3回日( 月 日) 「怒りと不当感について」
第4回目( 月 日) 「罪意識・自責の念について」
第5回目( 月 日) 「孤独感と抑うつについて」
第6回目( 月 日) 「対人関係とその変化について」
第7回目( 月 日) 「これまでの私、これからの私」
第8回目( 月 日) 「配偶者の死の受容と死の意味について」
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